いつもの代わり映えのない昼休み。

「涼介、頼まれてたの、持ってきたぞ」

 そう言って、ドサリと机の上に置かれたのは、いくつもの車のカタログ。

 隣のクラスからやってきた史浩は、涼介の前の席に腰を下ろした。

「サンキュ、史浩」

 涼介は無表情ともとれる笑顔で礼を述べ、適当に捲って眺める。

「どれがいいとか、めぼしいのあったか?」

「ん〜・・・今のところ、特には・・・」

 パラパラと見てみるが、ピンと来るモノがない。

「群馬に住んでたら、クルマがなきゃどうにもならないからな〜。でも親父さんには外車とか勧められるんじゃないか? 家のクルマもベンツだし」

「多分な・・・でもオレの好みじゃないよ。車なんてただの移動手段だから、何でも良いんだけど・・・」

「その割には、毎度毎度、熱心に見てるように見えるけどな。新車のカタログが出たら持ってこい、って言うからには、自分のクルマは自分で決める、ってことだろ?」

「まぁな。安い買い物じゃないし、折角なら拘りたい、と思ってるけど・・・コレだ、って思えるのがないんだよな・・・」

 高校2年に進級してから、ちょこちょこと自動車カタログをチェックするようになった。

 幼馴染みでもある史浩の家が自動車工場の為、涼介は新しいカタログが出る度に、史浩に持ってきてもらっている。

「ははっ、オマエの家の資産からしたら大抵のクルマは安い買い物のうちじゃないか? 高橋家は群馬の名士なんだから」

「オレの金じゃないからな。理想は、親に買ってもらっても後でちゃんとその代金は返す、って思ってるんだけど」

「涼介らしいな、その考え。まぁ高校生の財布なんて、バイトしてなきゃ親から貰う小遣いしかないモンな。まさか来年は受験生だってのに、バイトでもするのか? そんな時間ないだろ、この学校のカリキュラムじゃ予習復習でいっぱいいっぱいだし。まぁオマエには余裕か。中学から通して首席なんだし」

「高校生の出来るバイトなんて、放課後の短時間じゃたかが知れてるだろ。まぁ、オレらしい稼ぎ方をするよ」

「何だ? それ」

「さてな」

 しれっとして、涼介はパンフを捲る。

「まぁいいけどさ・・・涼介は教習所、いつから通うんだ? 誕生日の2ヶ月前から通えるだろ。オマエは誕生日、4月の終わりだったよな」

「あぁ。3月に入ったら行こうと思ってるよ」

「教習所、近いから助かるよな。でも3月って、いわゆる卒業シーズンだから、教習所も混んでると思うぞ。いっこうえのヤツとかでさ」

「それはしょうがないさ。オレは急ぐ訳じゃないから、構わない」

「それもそうか」

 予鈴が鳴り、史浩は席を立った。

「じゃ、オマエのお眼鏡にかなうクルマが見つかること、祈ってるよ」

 

 

 県下で一・二を争う進学校は、授業の時間も長い。

 大学への進学率がほぼ百%なので、大学の講義を見据えたカリキュラムで構成されている為、放課後がやってくるのも遅い。

 その遅い放課後も、涼介はサッカー部の部活に参加する。

 冬の選手権の県予選が終わり、3年生が引退して新体制になったばかりで、練習内容も幾分軽減されている。

 秋空の下、それでもシッカリ汗をかいて、暗くなって、高校から程近い自宅に帰宅する。

 住宅街でも一際大きな高橋邸の一角、ガレージは、子供達が車を買った時の為、随分広くスペースが取られてあった。

 いつも忙しい父親が帰宅していないので、そのガレージもガランとしている。

『此処にオレの車が入るのは、早くてゴールデンウィークか・・・』

 涼介は空間を見つめ、そこに停められた車の姿を想像する。

『ダメだな・・・イメージが浮かんでこない』

 ふぃ、と涼介は視線を逸らし、玄関に向かう。

「ただいま」

 家には誰もいない。

 だが、泥棒ではないのだから、誰もいなかろうと、出掛ける時には『いってきます』、帰ってきた時は『ただいま』と必ず言うよう、躾けられていた。

 涼介は玄関を上がると、まず目に付く豪奢な階段を通りすぎ、奥の階段から2階へ上がっていく。

 この高橋邸の2階は、両親と子供達で、使うフロアが分けられていた。

 生活サイクルの不規則な家なので、互いに迷惑を掛けないよう、子供の頃は行き来する通路もあったのが、今は塞がれている。

 互いに、と言う名目にはなっているが、自分達に、の間違いだろう、と涼介は思う。

 弟・啓介が荒れるようになって、目を背けた結果だ。

 小学生の頃から、涼介は1人で何でも出来た為、忙しい両親に変わって、啓介の面倒を見てきたのは涼介だった。

 成長して行くにつれ、顕著になっていった、兄と弟の出来。

 優秀な涼介と同じように出来ない啓介に、父親は叱ってばかりいた。

 芽生える反発心から、啓介は言うことを聞かなくなり、流されるように、悪い道に足を突っ込んだ。

『オレと同じように出来なくたって、啓介はオレより運動神経が良いんだから、それを見ていないんだよな・・・個性を認めて長所を伸ばす、どうしてそれが分からないんだ・・・』

 部屋に入り、鞄を置くと学生服を脱ぎ、着替えて、再び階下に降りる。

 脱いだモノと部活で使った練習着をランドリーボックスに投げ込み、LDKに向かう。

 ダイニングには、夕食が用意されてある。

 父親同様忙しい母親は、それでも食事は作りに一度帰ってくる。

 忙しくても出来る限り自分でする、と、この家に常駐も通いも、家政婦の類はいない。

 涼介達が小さかった頃は、家を空けなければならない時だけ臨時の家政婦が来ていたが、大きくなってからは、それも来なくなった。

 定期的にハウスクリーニングは来るが、基本、この家は広さの割に人がいない。

 お嬢様育ちでありながら、家政婦に頼らずに自分で、等というと聞こえはいい。

 だが優秀すぎる涼介に任せていれば大丈夫、と小さな啓介の面倒も任せきりで、啓介が荒れるようになっても、父親のように叱らずとも無関心なのだからタチが悪い。

『食事さえ作っておけばいい、なんて、まるでペットのようだな・・・餌を与えていれば大丈夫、って・・・』

 涼介は自分の分の食事を温め、食卓に着く。

「いただきます」

 これも躾の一つで、キチンと手を合わせて、食事の前と後の挨拶は必ずする。

 当然のマナーだと思っているので、それはどうでもいい。

 問題は。

 もうひとつ用意されてある、啓介の分の食事。

 きっと今日も食べられることはなく、残飯行きだ。

 それを文句をいうでもない母親は、忙しいのに子供の食事はちゃんと用意する、そんな自分に酔っているように思えて、滑稽だった。

『まぁ・・・啓介じゃなくたって、こんな家は窮屈だよな・・・何の面白味もない』

 広いLDKにて、たった1人で食べる食事にもいい加減に慣れた。

 だが、この胸にポッカリと空いている、がらんどうの感情。

 そこには何もない。

 そこにあるのは歪んだ存在。

 その矛盾を抱え、涼介は黙々と食事を口に運ぶ。

 がらんどうの隙間を埋めるように詰め込む、作業のような食事。

 それが日常。

 

 食べ終わって、食器を流しに運び、水に浸ける。

 気が向いたら食器洗いもするのだが、今日は面倒だったので、そのままにして部屋に戻った。

 机に向かい、今日出された課題を片付ける。

 ふと手を止め、思慮に耽る。

 家が大きな病院をやっていて、その院長の息子。

“御父様の跡を継いでさぞかし立派なお医者様になるんでしょう”

“高橋総合病院の未来は安泰ね”

 生まれた時から、決められたレール―――。

 誰も涼介に対して、どんな将来を歩むのか、別の道を考えられた事はなかった。

“将来はどんな大人になるのかしら”

 そんな風に言われた事は一度もない。

 誰もが皆、父の跡を継いで、医者になるモノと思っている。

 涼介自身も小さい頃から、そう思って、生きてきた。

 周りの望む人物像を演じてきて、それが真実なのか、偽りなのかも分からずに。

 決められた人生、定められた人物像。

 そうじゃないと、否定する事すら、思いもせずに生きてきた。

 でも心の奥に潜む、深い闇。

 それが何なのか、馬鹿じゃないから分かってる。

『オレは・・・何かを期待しているんだ・・・自分を変えてくれる何かを・・・』

 それが人なのか、物なのかはまだ分からないけれど。

 他力本願は自分の美学に反する。

 だが、自ら行動を移す“キッカケ”さえ、未だ見つかっていない。

『結局は・・・オレもまだ未熟なガキだってことだ・・・』

 

 

 課題を済ませ、明日の予習をしていると、突如開けられた部屋のドア。

「アニキ〜」

「―――っ、啓介・・・ノックくらいしろ」

 自分の思考に入り込んでいた涼介は、突如現実に引き戻されて、ビクリと振り返る。

「ひとりえっちしてる中学生かよ? アニキがんなコトしてる訳じゃあるまいし、何かやましいことでもしてたんか?」

 あっけらかんとして、ズカズカと入ってくる啓介。

「そうじゃない。家族であれ、部屋に入る時はノックをして返事が返ってから開けるのがマナーだろう」

「へいへい、次からはそうします〜」

「何か用か?」

「もうすぐ中間テストだからさ。アニキ教えて」

 啓介の手には、教科書とノートが握られてあった。

「オレも中間テスト前なんだがな」

「って、アニキ別にテスト勉強なんかしなくたってまた一番だろ? な? 教えて」

 甘えたように、啓介は請う。

 顔を見れば、掠り傷や痣がいくつもある。

 相変わらず喧嘩に明け暮れているのか、と涼介は息を吐いて、自分の勉強道具を片付けた。

「しょうがないな。今の時期、良い点を取っておかないと内申書に響くからな。座れ」

 椅子から立ち上がり、弟に椅子を勧める。

「今日は数学と理科ヨロシク〜♪」

 啓介はドッカと椅子に座り、教科書を広げた。

 荒れて悪ぶっていても、涼介の前では、昔と変わらない、子供のような啓介。

 広げられた教科書は、授業を真面目に受けていないからか、随分と綺麗だ。

 だがテスト前には、必ずこうやって教えを請いに来る。

 授業は聞かずとも、兄の言うことはキチンと聞いて、覚えようと懸命だ。

 傍らで丁寧に教えながら、そんな弟が、可愛くて仕方なかった。

 教科書を捲ると、ひらり出てきた、わら半紙。

 テスト範囲の紙か何かと思い、涼介はそれを広げて見る。

 だがそれは、進路希望調査票だった。

 名前も志望校も全て未記入のまま、無造作に折られていたそれを見て、涼介は啓介を見遣る。

「啓介、進路希望の紙、まだ出してなかったのか?」

「ぁ? あ〜そんなトコ挟まってたんか。ドコやったのかと思ってた」

 さも興味なさそうに、啓介は返す。

「志望校、まだ決めてないのか? 3年のこの時期に決めてないなんて、どうするつもりなんだ」

「だってさ、オレはアニキと違って医者になれるような頭もねぇし、出来損ないだからさ、ドコ行ったって同じじゃん? センコーはオレの頭で入れるテキトーなトコ言うんだけどさ、ウチから遠いんだよな〜・・・」

 シャーペンでこりこり頭を掻きながら、ブツブツと呟く。

「・・・自分で行きたいと思う学校はないのか?」

「ん〜・・・ねぇ訳じゃねぇけど・・・」

 ゴニョゴニョと、啓介は言葉を濁した。

「ならそこを書いて提出すればいいだろう。オマエの担任、槇野先生だろう? 槇野先生はオマエのこと、ちゃんと見てくれる先生じゃないか」

「や〜・・・そうだけど、ちっとムボーかな〜・・・なんて・・・ゼッテェやめとけって言われるに決まってるし」

「・・・何処なんだ? 啓介」

「―――高校」

 ボソッと呟いた言葉に、涼介は目を見開く。

「え・・・?」

「〜〜〜だから、T高校、って・・・」

「―――ウチ、か?」

「やっぱアニキもムボーって思うだろ? オレの偏差値じゃゼッテェ無理だって。受験まで後半年っきゃねぇし・・・」

「いや・・・まぁ、シッカリと勉強すれば、今からでも遅くはないと思うが・・・何故ウチなんだ? オレが言うのも何だが、常に上を目指す勉強ばかりで娯楽なんて無いに斉しい、オマエから見たら息が詰まるような学校だぞ」

「や、知ってっけどさ・・・だって近いじゃん。すぐソコだし・・・朝ギリギリまで寝てられるしさ・・・」

 珍しく歯切れの悪い啓介に、涼介はピンと勘付いた。

「そんな理由で選んだんじゃないんじゃないのか? 他に理由があるんだろう? それは何だ? 啓介」

「だから・・・〜〜〜って」

「え?」

「アニキとおんなじガッコ行きたいな、って、それだけ・・・」

 涼介は目を丸くする。

「オレと同じ学校に通いたいって・・・それだけの理由で?」

「・・・うん」

 可愛いことを言う、と涼介は胸の奥が熱くなるのを感じた。

「だが啓介・・・オマエ、オレと比べられるのが嫌だったんじゃないのか? 今もそうなのに、同じ高校に来たら、また同じ事の繰り返しだぞ。それでもいいのか?」

 涼介の言葉に、啓介は一瞬黙り込んだ。

「―――それはもう、イヤって程味わってきてる。面白くねぇコトばっかだけど、元々オレの人生、面白くねぇモンだしさ。やりたいこととかなんもねぇし、毎日つまんねぇしさ。ドコ行ったって同じなら、だったらアニキの傍にいられる方がいっかな、って・・・」

「傍にって・・・同じクラスで授業を受けるのは無理だぞ、啓介」

「そこでボケんなよっ! 勉強ばっかのガッコだって、校内行事とかあるだろ? そ〜ゆ〜ので一緒出来んなら、真面目に行こっかな、って思うっつ〜か・・・っても重なってんの一年だけだけどさ・・・オレ、目標とかなんもねぇけど、何か目指すモン作るとしたら、やっぱオレはアニキっきゃねぇんだよ・・・スゲェあやふやなモンだけど、他に思い浮かばねぇし・・・目標は高い方が頑張りがいがあるって〜の?」

 そんな言葉を啓介の口から聞けるとは思わなかった。

 昔からずっと比べられてきて、啓介にとって邪魔な存在ではないかと思っていたからだ。

 自分さえいなければ、もっと伸び伸びと自由に生きて来れたんじゃないか、と・・・。

 それなのに、この兄を目標としてくれる。

 涼介の中で騒ぎ立てる感情を、押し殺すのが大変だった。

「・・・やっぱムボー? アニキもやめた方がイイとか思う?」

「いや・・・上昇志向があるのは良いことだよ。オマエにその気があるのなら、オレは反対しない。必死になって受験勉強しろよ、啓介」

 それを聞いて、啓介はぱぁっと表情を明るくした。

「良かった〜。じゃ、受験勉強ヨロシク見てくれよ、アニキ」

「何だ、結局オレに頼るのか」

「だって今までだってそうだったじゃん!」

「はは、まぁいい。じゃ、受験まで寸暇を惜しんで頑張るんだぞ、啓介」

「うぃ〜っす!」

 まさか啓介が、自分と同じ高校を志望するなんて。

 北高か東高辺りを目指すのが妥当だと涼介は思っていた。

 啓介は頭が悪い訳ではないのだから、シッカリと勉強すれば、合格は可能だろう。

 現にこうして教えていても、飲み込みはいいのだ。

 授業に付いていくのは厳しいかも知れないが、根気の強い啓介なら、不可能も可能にしていける筈。

 まだ使い方を分かっていないその才能の使い方を、涼介が教えてやればいい。

 

 随分前から、涼介の胸の奥に灯っていた、小さな炎。

 それが少しずつ、大きく強くなっているのを、涼介は感じ取る。

 考えると苦しくて、もどかしい、ジリジリとした炎。

 その正体が何なのか、涼介は気付かないフリをした。

 

 

 夜が更け、啓介が部屋に戻ると、涼介は入浴を済ませた。

 のぼせた訳でもないのに、動悸がいつもより激しい。

 湯船に浸かってボ〜ッと物思いに耽っていて、脳裏を掠めた“答え”を否定する。

『馬鹿げている・・・そんなこと、有り得ないだろう・・・』

 早々に寝てしまおう、と思うが、寝つけそうにない。

 仕方なしに、史浩から貰ってきた車のカタログを鞄から出して、ベッドに寝転がる。

 適当に眺めながら、思考をリセットさせようと文字の羅列を目で追う。

 理路整然とした説明文というモノは、涼介の思考を落ち着かせてくれる。

 相変わらず気に入った車には出会えないが、今は別にそれでいい。

 18になるまでだってまだ半年以上あるのだ。

 車は卒業する頃で構わない。

 そう思いながら、何気なく眺めていた涼介は、とある車のコンセプトを見て、目を見開く。

 ドクン、と鼓動が跳ねる。

 ガバッと起き上がって、じっくりと説明を読む。

 それまで出逢ったことのない独特のコンセプトに、我知らず、ゾクゾクした。

 マイナーでありながら、孤高のスピリッツに、プライドを感じる。

『コレだ―――オレの求めていたモノ・・・コレこそが相応しい―――』

 涼介は時が経つのも忘れる程、そのカタログを熟読した。