風薫る5月の終わり頃。

 凍結が溶け、大型連休による観光シーズンが過ぎた赤城の峠で、走り屋達の間で噂になっているクルマがあった。

 突如現れた、鬼のように馬鹿っ速い白のFC。

 群馬でもレベルの高い赤城の走り屋達の誰も敵う者はなく、それが誰なのかも分かっていない。

 いつしか、そのFCは走り屋達の間で、こう呼ばれるようになっていた。

 あっという間に視界から消えていく。

 《赤城の白い彗星》と―――。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 週末、FCを年次定期点検に出す為に史浩の家の自動車工場にやってきた涼介は、まるでそれも定期コースであるかのように、史浩の部屋に寄っていた。

「最近赤城で噂になってる馬鹿っ速い白のFCって、オマエのことだろ、涼介」

 淹れ立ての熱い紅茶をテーブルに置きながら、史浩は幼馴染みを見遣る。

「他に赤城で白いFCに乗っている奴がいなければ、そうだろうな」

 有り難う、とソーサーを引き寄せ、ティーカップを手に取ってそう返した。

「ずっと平日の深夜過ぎにしか行っていなかったのに、早い時間や週末にも行くようになったんだって? 水くさいな、オレも誘ってくれよ」

 ドサッと腰を下ろしながら、史浩はスティックシュガーをカップに落とし入れ、スプーンで掻き混ぜる。

「すまんな。ちょっと1人で色々試していたんだ。それには連れがいない方が便利だったんで・・・まぁ大体手応えは掴めたから、点検が済んだら―――今日にでも、行くか? 史浩」

 ストレートのまま紅茶に口を付ける涼介は、砂糖入れすぎだぞ、と言いながら、史浩を伺った。

「そうだな。峠でオマエがどんな走りをするのか、見てみたいよ。オレみたいなのが一緒じゃ、場違いかも知れないけど」

「はは、何言ってるんだ。オレも聞いた噂があるんだがな。週末になると現れる、やたら速いマリナーブルーのロードスターがいる、って・・・史浩のことじゃないのか?」

 チラ、と涼介は史浩を見据える。

「えっ。や〜、まさか。オレなんか涼介の足もとにも及ばないよ。まぁそれはさておいて、啓介の様子はどうなんだ? 夜中に啓介のバイクの音が聞こえてくるから、帰ってきてるみたいだけど・・・」

 話題転換した史浩の問い掛けに、涼介はトクンと鼓動が跳ねた。

 動揺を悟られないように、紅茶を一口含む。

「あぁ、毎日じゃないんだが・・・中間テスト前は、ちゃんと早い時間に帰ってきて、勉強を見たよ。仲の良いクラスメイトも出来たようだし、高校もキチンと行っている」

「へぇ・・・そうか、良かったよ。松本さんに訊いたけど、紅蠍隊の連中とは最近余り連んでないようだ、くらいしか分からなくてさ」

 でも良かった、と史浩は純朴な笑顔を見せた。

 その屈託のない笑顔が、涼介には後ろめたさで、目を逸らしたくなる。

 誰にも言えない、血の繋がった弟と、禁忌と関係を結んだなんて―――。

 

 

 去年のクリスマスイブに、啓介と身体の関係を結んだ。

 ずっと擦れ違い続けた気持ちが通じ合って―――あれ程の悦びは、初めて味わった。

 まさしく、天にも昇る程の、至福。

 明日この世が滅びてもいいと、思ったくらい―――いや、本当に滅んだ方が良かったのかも知れない。

 あれから半年近く経つが、あの日以来、啓介とは身体を重ねることはなかった。

 勿論、何度も啓介には請われた。

 だが、その度に体のいい言い訳を用意して、断り続けている。

 本音を言えば、涼介とて、啓介が欲しい。

 しかし未来に無限の可能性を秘めている啓介の世界を、己のエゴで狭めさせる訳にはいかなかった。

 たった一つの未来しか用意されていない涼介と違って、啓介には、沢山の可能性がある。

 一本気で純粋な啓介は、涼介が許せば、のめり込んで他が見えなくなってしまうだろう。

 涼介はそれを恐れた。

 啓介には、自分が見ることの許されない夢を、望むことの出来ない未来を、叶えていって欲しい―――それが《何》かは、今はまだ、分からないけれど。

 その為に、この穢れた欲望は、永劫に封印すると決めた。

 だが―――・・・。

 日増しに、募る啓介への強い想い。

 《啓介が欲しい》と、心が、身体が、訴えている。

 気持ちを秘めていた時以上に、強く訴えている、本能。

 

 啓介が、欲しい―――。

 

 こんなに苦しむのなら、気持ちが通じ合わなければ良かった。

 クリスマスイブの前日までも、確かに苦しみ悶えていた。

 だが、通じ合ったことで、一層苦しむようになるとは、あの日あの時まで思いもしなかった。

 そう、気持ちが通じるとは、想いが叶うとは、思っていなかったから。

 人生に於いて、全てを千手先まであらゆるパターンで考えて行動してきた涼介は、この想いが叶うとは思っていなかったから、もし叶ったら、という可能性を、そうなった未来のことを、考えていなかったのだ―――。

 

 

 

 啓介への穢れた欲望を抑え込む為に、この想いは忘れようと、涼介はクルマに打ち込んだ。

 大学が終わると赤城に行き、遅くまで走り込む。

 他の走り屋達から《赤城の白い彗星》と呼ばれていると、史浩から聞かされた。

 突如彗星のように現れたかららしいが、随分前から赤城を走り込んでいた涼介には、湧いて出たお化けじゃあるまいし、と思う。

 まぁ今まで人目に付かないようにしていたのだから、幽霊と言われるよりはマシか、と誰が付けたか知らないが、そのネーミングセンスは割と気に入っていた。

 たまに史浩も赤城に来るが、史浩と一緒に走ることは殆ど無く、基本的に1人で走っていたので、《一匹狼》とも呼ばれているらしい。

 大抵の走り屋はチームを作ってそれに属していたから、涼介の存在は異色だったのだろう。

 馬鹿っ速いという噂を聞きつけて、赤城一を自負する連中からバトルを挑まれることもしばしばだったが、負ける筈もなく、連戦連勝、それもぶっちぎりで、《赤城の白い彗星》の名は、群馬中に轟くようになっていった。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 今年も、群馬に暑い夏がやってきた。

 期末テストを控えて、部活禁止期間に入ったT高校にて。

 昼休み、英語部の部室で弁当を食べながら、啓介はぶすくれていた。

「高橋〜、メシ食いながらその辛気くさいツラはやめろって。こっちのメシまで不味くなる」

 英語部の部長であり、啓介のクラスメイトでもある久木が、ウンザリしたように、言い放つ。

「じゃあ見んな。楽しくもねぇのにニコニコなんか出来ねぇっつの。つ〜かだったら出てけ」

 もそもそと白米を頬張りながら、啓介は言い捨てた。

「あのな、オレは此処の部長なの! オマエは殆ど活動してねぇ幽霊部員だろうが。オマエが出てけ」

「テストのヤマ当ててくれるっつったから来たんだっつの」

「だったらその辛気くさいツラやめろ。笑えなんて言わねぇから、メシ食う時くらい、《動植物の命を戴きま〜す》って感謝して食えよ」

「・・・オマエ、ナントカ技師より保育士とかの方が合ってるんじゃね?」

「はは、オレの《カノジョ》が保育士だけどな」

 《カノジョ》という言葉に、啓介は眉を寄せ、弁当の残りをかっ込んだ。

 久木の《カノジョ》は、3つ年上の、《男》である―――。

 自販機で買ってきたお茶で喉を潤して、啓介はポケットをまさぐった。

「―――なぁ久木、煙草持ってる?」

 カラの煙草のケースをクシャッとポケットの中で握り潰して、久木を伺う。

「んなモン学校に持ってきてる訳ねぇだろ。一応オレ、学校じゃ《優等生》やってるから」

 しれっと返して、食べ終わった久木は弁当箱と水筒を片付けた。

「てか高橋、煙草あんまり吸わないようにしてたんじゃなかったっけ? アニキとの約束とかで」

「アニキとの約束は《18になるまで吸うな》だから、18になったから吸ってんの」

 涼介から貰ったジッポの火をつけながら、気のない返事を返す。

「そっか、高橋ってもう18なのか。オレ早生まれだからさ〜。つ〜か高橋のアニキって変わってるな。教師やら何やらから覚えめでたき優等生で模範生だったのに、普通、お酒も煙草もハタチから、だろ? 18って言うか?」

「身体に良くないから吸わないに越したことはないとか言われたけどな」

 机に突っ伏して、ユラユラと揺れる火を虚ろに見つめた。

 ジリジリと、身体の奥底から燃えさかってくる、熱い衝動。

「っだ〜〜〜〜っ、もう! マジ欲求不満! 頭オカシクなるっつの!」

 カチンとジッポの蓋を閉じて、ぎゅっと握り締めて、啓介はおもむろに叫んだ。

 座っているパイプ椅子が、軋んで金属音を立てる。

「はは、高校男子なんてみんなそんなモンだけどな。夏なんて特に、四六時中、えっちのコトしか考えてねぇ、ってな」

「オマエも同じ高校男子だろ〜が。悟ったような言い方してさ、毎日ヤリまくってっから欲求不満なんて感じねぇってか?」

 ギロ、と啓介は久木を睨んだ。

「別に毎日じゃねぇよ。相手社会人一年目だし、ガキンチョ相手って結構パワーいるみたいだし、疲れてるから今日はダメ〜とか言われてるぜ?」

 しれっと言いながら、テスト範囲の紙を眺めて教科書を開く。

「でもヤッてんだろ? い〜なぁ・・・アニキ全然ヤらせてくんねぇんだよ・・・もう身代わりなんか要らねぇだろ? もし身代わりカレシとかとヤッてたら相手殺す! マジで!」

「一つ屋根の下で毎日一緒に暮らしてんだから、いくらでもチャンスあるだろ? マジであれから一度もヤらせてもらえてない訳?」

 久木の問い掛けに、啓介はコクンと頷いた。

「だってさ、しよ、つっても、いつオヤジやオフクロに見つかるか分からないから、とか言われてさ〜・・・」

「まぁ確かにそうだな。ウチの親父も帰ってくる時間まちまちで、早かったり遅かったりするからなぁ・・・出張で家を空けたと思ったら、イキナリ帰ってきたりするし・・・自分に置き換えたら、高橋のアニキがダメって言うのも分からなくはないな」

 危険すぎる、と父親が群大病院の医者である久木はふぅと息を吐いた。

「もう苛々しっぱなしだっつの! あ〜煙草吸いてぇ・・・」

「デカイ声で言うなって。先公が聞いてたらまたどやされるぞ」

 呆れたように、久木はポケットをまさぐって、ポイッと何かを啓介に向かって投げた。

 啓介の目の前に転がったのは、イチゴキャンディ。

「口寂しいんなら、キャンディでもしゃぶってな」

「アニキみてぇなこと言うな。つぅかポケットに飴玉入ってる高校男子って何なんだ、オマエ・・・」

 顔をしかめながらも、啓介は包装紙を開いて、キャンディを口に放り込む。

 甘いモノが嫌いではない啓介は、暑さで泣いているキャンディの甘さが舌に広がって、少しだけ落ち着いた。

 あくまでも、少しだけ、なのだが。

「はは、オレも口寂しくてよ、ってか。近所に大阪から引っ越してきたオバチャンいてさ、挨拶する度に、何故か、飴ちゃんいる? っつってくれるんだよ」

 久木のポケットにはいくつキャンディが入っているのか、もう1つ取り出して、自分の口に放り込んだ。

「つぅか男子校でナニ気色悪ィコトしてんだろな、昼休みに飴を遣り取りして舐めて、女子高生かっつの・・・」

 コロコロと口の中を転がすキャンディで、頬を膨らませる。

「まぁいいじゃん。高橋はキャンディよりアニキのぶっといキャンディしゃぶりたいよ〜って顔に出てるぜ」

「久木・・・ソレ笑えねぇよ・・・」

「ま、アホな話はおいといて、ホラ、テストのヤマ当ててやっから、教科書出せって」

「へ〜い・・・」

 隣の前橋市が全国最高気温を記録したその日。

 窓の外は、恨めしい程に蜃気楼が揺らめいていた。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 夏休みに入った涼介は、群馬近郊のサーキットに史浩と行ったり、ジムカーナの競技会に出たりしていた。

 何処に行っても、涼介はダントツのラップタイムを叩き出して、峠の走り屋達だけでなく、レーシング業界でも名が広まっているらしい。

 クルマに負担を掛け通しなので、前以上にこまめにメンテナンスをしてもらうようになった。

 担当整備士は、勿論、松本修一。

 若いのに、この自動車工場で一番優秀なメカニックだった。

 勉強熱心で、整備士の学校を出てからも、今でも更なる上の資格取得をしていると聞いた。

 涼介の望むように、いやそれ以上に仕上げてくれる松本に、涼介は全幅の信頼を預けている。

「―――とまぁ、今回はこんな感じです。何か質問はありますか、涼介さん」

「いや、ないよ。相変わらず、松本さんの知識と技術は素晴らしいよ。コッチのことも勉強してるだろ。流石のオレも松本さんには敵わないな」

「何言ってるんです。適材適所、ですよ。RPGと同じです。涼介さんが勇者なら、何でもこなせても、戦士や魔法使いよりその分野で強くなくてもいいんです。オレはアナタの専属メカニックですから、涼介さんが目指すモノの為に、それに見合う以上の能力を身に付けるだけですよ」

 松本は穏やかに微笑んだ。

 積み重ねていった信頼で、2人の間の関係性が、少しずつ変わってきていた。

「有り難う・・・お陰で助かっている。まぁ、啓介のことでも、世話になっているけど・・・」

「最近はどうです? ちゃんとご自宅に帰られてますか?」

 上げていたボンネットを閉じて、松本は涼介を伺う。

「あぁ、去年の秋頃よりは、マメに帰ってくるようになった。相変わらず遅い時間だけど・・・松本さんは、何か聞いてるか? 紅蠍隊の連中とは余り連んでないらしいってのは、史浩づてに聞いたんだけど・・・」

「そうですね、然るべきスジに調べてもらってるんですが、啓介さんは元々紅蠍隊の正式メンバーではなく、でも幹部達に可愛がられていることから、切り込み隊長をしているようです。ですが最近は、幹部連中がクルマに乗るようになったら、距離を置くようになったとか・・・でも啓介さんには、啓介さんを慕う舎弟が大勢いるらしく、その舎弟を引き連れて、あちこちと単車で流してるみたいです。売られた喧嘩は買っているようですが、啓介さんの側から売ることはないようですね」

「そうか・・・最近は警察から電話が来たりということは無くなっているけれど、暴走行為や喧嘩は相変わらずか・・・そんなコトじゃなくて、他に打ち込めるモノを見つけられればいいんだが、啓介は聞く耳を持たなくてな」

 ふぅ、と涼介は息を吐く。

「啓介さん、18になったでしょう。クルマの免許も取れるようになりましたが、クルマが嫌いのようですね。単車は大事にしているみたいですけど・・・まぁ、周りから見たら馬鹿げていて意味のないことでも、その中である日突然、キッカケは生まれるモノですよ。泥沼の中を藻掻き足掻いていけば、いつか必ず岸に上がることは出来ます。啓介さんの些細な変化を見逃さないように、涼介さんは持ち前の観察力を大事にしていればいいんじゃないですかね。外でのことは、オレも手下の者を使って、何かあったら、逐一報告しますよ」

 

 

 

 時間を最大限に有効に使う涼介は、夜は峠に充て、この夏休みは、サーキットやジムカーナに行く以外は、サークル活動に参加したり、漆原教授の研究室で、依頼された作業や実験をしたりと、公私ともに充実している、の見本のような日々を送っていた。

 しかし、胸の奥が、身体の中心が、熱く疼く。

 空洞だった心には、ガラスのコップが置かれて、でも何処かにヒビが入っているのか穴が開いているのか、潤うことはなかった。

 いや、一度潤ってから、段々と漏れだしていき、空のコップが、水をくれ、と訴えている。

 ただの水ではない。

 涼介の心と身体を潤してくれる―――そう、啓介が欲しい、と訴えているのは分かっている。

 でも、それは出来ないから、別の水を入れてみても、やはり穴が開いているせいで、満たされたと思っても、すぐに乾いていく―――。

 

 ふと真夏の太陽を見上げる。

 啓介の笑顔のように、眩しくて―――でも、思い浮かぶのは、怒ったような顔。

 求められても、断ってばかりいるからだ、と分かっている。

 《そのこと》以外で、啓介の笑顔が見たい―――どうすれば見られる?

 昔に戻ることが出来ないなら、前に進むしかないけれど、啓介の目の前の道は、どんな未来に繋がっているのか―――・・・。

「おい、また太陽を見上げて、ぶっ倒れる気じゃないだろうな」

 大学の敷地内のど真ん中で、答えが見つからずに思考を飛ばしていたら、背後から声を掛けられた。

「北条先輩・・・」

 KCを纏った凛が、悠然と歩きながらやってくる。

「夏休みだってのに、大学まで来て、熱心だな、涼介は。まだ2年なんだから、今のうちにもっと遊んだらどうだ?」

 凛の言葉に、クス、と涼介は笑う。

「夜に充分遊んでますよ。北条先輩は、休憩時間ですか?」

「あぁ。夏休み期間だから、割と時間はあるんだ。休みもあるしな・・・」

 だが流石に病棟実習は忙しいようで、少し痩せたんじゃないかな、と涼介は思った。

「北条先輩・・・夜、時間ありますか?」

「あぁ? まぁ・・・赤城に付き合えってんなら、断るぞ。オマエ、随分有名になってるしな・・・下手に目立ちたくない。オレのマンションで良けりゃ、後で来い。話ぐらいは聞いてやる」

 その《意味》は、2人にしか分からない、合図―――。