■赤城心中恋唄・壱 sample■



◇ ◇ ◇


 いつもの代わり映えのない昼休み。
「涼介、頼まれてたの、持ってきたぞ」
 そう言って、ドサリと机の上に置かれたのは、いくつもの車のカタログ。
 隣のクラスからやってきた史浩は、涼介の前の席に腰を下ろした。
「サンキュ、史浩」
 涼介は無表情ともとれる笑顔で礼を述べ、適当に捲って眺める。
「どれがいいとか、めぼしいのあったか?」
「ん〜…今のところ、特には…」
 パラパラと見てみるが、ピンと来るモノがない。
「群馬に住んでたら、クルマがなきゃどうにもならないからな〜。でも親父さんには外車とか勧められるんじゃないか? 家のクルマもベンツだし」
「多分な…でもオレの好みじゃないよ。車なんてただの移動手段だから、何でも良いんだけど…」
「その割には、毎度毎度、熱心に見てるように見えるけどな。新車のカタログが出たら持ってこい、って言うからには、自分のクルマは自分で決める、ってことだろ?」
「まぁな。安い買い物じゃないし、折角なら拘りたい、と思ってるけど…コレだ、って思えるのがないんだよな…」
 高校2年に進級してから、ちょこちょこと自動車カタログをチェックするようになった。
 幼馴染みでもある史浩の家が自動車工場の為、涼介は新しいカタログが出る度に、史浩に持ってきてもらっている。
「ははっ、オマエの家の資産からしたら大抵のクルマは安い買い物のうちじゃないか? 高橋家は群馬の名士なんだから」
「オレの金じゃないからな。理想は、親に買ってもらっても後でちゃんとその代金は返す、って思ってるんだけど」
「涼介らしいな、その考え。まぁ高校生の財布なんて、バイトしてなきゃ親から貰う小遣いしかないモンな。まさか来年は受験生だってのに、バイトでもするのか? そんな時間ないだろ、この学校のカリキュラムじゃ予習復習でいっぱいいっぱいだし。まぁオマエには余裕か。中学から通して首席なんだし」
「高校生の出来るバイトなんて、放課後の短時間じゃたかが知れてるだろ。まぁ、オレらしい稼ぎ方をするよ」
「何だ? それ」
「さてな」
 しれっとして、涼介はパンフを捲る。
「まぁいいけどさ…涼介は教習所、いつから通うんだ? 誕生日の2ヶ月前から通えるだろ。オマエは誕生日、4月の終わりだったよな」
「あぁ。3月に入ったら行こうと思ってるよ」
「教習所、近いから助かるよな。でも3月って、いわゆる卒業シーズンだから、教習所も混んでると思うぞ。いっこうえのヤツとかでさ」
「それはしょうがないさ。オレは急ぐ訳じゃないから、構わない」
「それもそうか」
 予鈴が鳴り、史浩は席を立った。
「じゃ、オマエのお眼鏡にかなうクルマが見つかること、祈ってるよ」



 県下で一・二を争う進学校は、授業の時間も長い。
 大学への進学率がほぼ百%なので、大学の講義を見据えたカリキュラムで構成されている為、放課後がやってくるのも遅い。
 その遅い放課後も、涼介はサッカー部の部活に参加する。
 冬の選手権の県予選が終わり、3年生が引退して新体制になったばかりで、練習内容も幾分軽減されている。
 秋空の下、それでもシッカリ汗をかいて、暗くなって、高校から程近い自宅に帰宅する。
 住宅街でも一際大きな高橋邸の一角、ガレージは、子供達が車を買った時の為、随分広くスペースが取られてあった。
 いつも忙しい父親が帰宅していないので、そのガレージもガランとしている。
『此処にオレの車が入るのは、早くてゴールデンウィークか…』
 涼介は空間を見つめ、そこに停められた車の姿を想像する。
『ダメだな…イメージが浮かんでこない』
 ふぃ、と涼介は視線を逸らし、玄関に向かう。

「ただいま」
 家には誰もいない。
 だが、泥棒ではないのだから、誰もいなかろうと、出掛ける時には『いってきます』、帰ってきた時は『ただいま』と必ず言うよう、躾けられていた。
 涼介は玄関を上がると、まず目に付く豪奢な階段を通りすぎ、奥の階段から2階へ上がっていく。
 この高橋邸の2階は、両親と子供達で、使うフロアが分けられていた。
 生活サイクルの不規則な家なので、互いに迷惑を掛けないよう、子供の頃は行き来する通路もあったのが、今は塞がれている。
 互いに、と言う名目にはなっているが、自分達に、の間違いだろう、と涼介は思う。
 弟・啓介が荒れるようになって、目を背けた結果だ。
 小学生の頃から、涼介は1人で何でも出来た為、忙しい両親に変わって、啓介の面倒を見てきたのは涼介だった。
 成長して行くにつれ、顕著になっていった、兄と弟の出来。
 優秀な涼介と同じように出来ない啓介に、父親は叱ってばかりいた。
 芽生える反発心から、啓介は言うことを聞かなくなり、流されるように、悪い道に足を突っ込んだ。
『オレと同じように出来なくたって、啓介はオレより運動神経が良いんだから、それを見ていないんだよな…個性を認めて長所を伸ばす、どうしてそれが分からないんだ…』
 部屋に入り、鞄を置くと学生服を脱ぎ、着替えて、再び階下に降りる。
 脱いだモノと部活で使った練習着をランドリーボックスに投げ込み、LDKに向かう。
 ダイニングには、夕食が用意されてある。
 父親同様忙しい母親は、それでも食事は作りに一度帰ってくる。
 忙しくても出来る限り自分でする、と、この家に常駐も通いも、家政婦の類はいない。
 涼介達が小さかった頃は、家を空けなければならない時だけ臨時の家政婦が来ていたが、大きくなってからは、それも来なくなった。
 定期的にハウスクリーニングは来るが、基本、この家は広さの割に人がいない。
 お嬢様育ちでありながら、家政婦に頼らずに自分で、等というと聞こえはいい。
 だが優秀すぎる涼介に任せていれば大丈夫、と小さな啓介の面倒も任せきりで、啓介が荒れるようになっても、父親のように叱らずとも無関心なのだからタチが悪い。
『食事さえ作っておけばいい、なんて、まるでペットのようだな…餌を与えていれば大丈夫、って…』
 涼介は自分の分の食事を温め、食卓に着く。
「いただきます」
 これも躾の一つで、キチンと手を合わせて、食事の前と後の挨拶は必ずする。
 当然のマナーだと思っているので、それはどうでもいい。
 問題は。
 もうひとつ用意されてある、啓介の分の食事。
 きっと今日も食べられることはなく、残飯行きだ。
 それを文句をいうでもない母親は、忙しいのに子供の食事はちゃんと用意する、そんな自分に酔っているように思えて、滑稽だった。
『まぁ…啓介じゃなくたって、こんな家は窮屈だよな…何の面白味もない』
 広いLDKにて、たった1人で食べる食事にもいい加減に慣れた。
 だが、この胸にポッカリと空いている、がらんどうの感情。
 そこには何もない。
 そこにあるのは歪んだ存在。
 その矛盾を抱え、涼介は黙々と食事を口に運ぶ。
 がらんどうの隙間を埋めるように詰め込む、作業のような食事。
 それが日常。


 食べ終わって、食器をシンクに運び、水に浸ける。
 気が向いたら食器洗いもするのだが、今日は面倒だったので、そのままにして部屋に戻った。
 机に向かい、今日出された課題を片付ける。
 ふと手を止め、思慮に耽る。
 家が大きな病院をやっていて、その院長の息子。
《御父様の跡を継いでさぞかし立派なお医者様になるんでしょう》
《高橋総合病院の未来は安泰ね》
 生まれた時から、決められたレール―――。
 誰も涼介に対して、どんな将来を歩むのか、別の道を考えられた事はなかった。
《将来はどんな大人になるのかしら》
 そんな風に言われた事は一度もない。
 誰もが皆、父の跡を継いで、医者になるモノと思っている。
 涼介自身も小さい頃から、そう思って、生きてきた。
 周りの望む人物像を演じてきて、それが真実なのか、偽りなのかも分からずに。
 決められた人生、定められた人物像。
 そうじゃないと、否定する事すら、思いもせずに生きてきた。
 でも心の奥に潜む、深い闇。
 それが何なのか、馬鹿じゃないから分かってる。
『オレは…何かを期待しているんだ…自分を変えてくれる何かを…』
 それが人なのか、物なのかはまだ分からないけれど。
 他力本願は自分の美学に反する。
 だが、自ら行動を移す《キッカケ》さえ、未だ見つかっていない。
『結局は…オレもまだ未熟なガキだってことだ…』


 課題を済ませ、明日の予習をしていると、突如開けられた部屋のドア。
「アニキ〜」
「―――っ、啓介…ノックくらいしろ」
 自分の思考に入り込んでいた涼介は、突如現実に引き戻されて、ビクリと振り返る。
「ひとりえっちしてる中学生かよ? アニキがんなコトしてる訳じゃあるまいし、何かやましいことでもしてたんか?」
 あっけらかんとして、ズカズカと入ってくる啓介。
「そうじゃない。家族であれ、部屋に入る時はノックをして返事が返ってから開けるのがマナーだろう」
「へいへい、次からはそうします〜」
「何か用か?」
「もうすぐ中間テストだからさ。アニキ教えて」
 啓介の手には、教科書とノートが握られてあった。
「オレも中間テスト前なんだがな」
「って、アニキ別にテスト勉強なんかしなくたってまた一番だろ? な? 教えて」
 甘えたように、啓介は請う。
 顔を見れば、掠り傷や痣がいくつもある。
 相変わらず喧嘩に明け暮れているのか、と涼介は息を吐いて、自分の勉強道具を片付けた。
「しょうがないな。今の時期、良い点を取っておかないと内申書に響くからな。座れ」
 椅子から立ち上がり、弟に椅子を勧める。
「今日は数学と理科ヨロシク〜♪」
 啓介はドッカと椅子に座り、教科書を広げた。
 荒れて悪ぶっていても、涼介の前では、昔と変わらない、子供のような啓介。
 広げられた教科書は、授業を真面目に受けていないからか、随分と綺麗だ。
 だがテスト前には、必ずこうやって教えを請いに来る。
 授業は聞かずとも、兄の言うことはキチンと聞いて、覚えようと懸命だ。
 傍らで丁寧に教えながら、そんな弟が、可愛くて仕方なかった。
 教科書を捲ると、ひらり出てきた、わら半紙。
 テスト範囲の紙か何かと思い、涼介はそれを広げて見る。
 だがそれは、進路希望調査票だった。
 名前も志望校も全て未記入のまま、無造作に折られていたそれを見て、涼介は啓介を見遣る。
「啓介、進路希望の紙、まだ出してなかったのか?」
「ぁ? あ〜そんなトコ挟まってたんか。ドコやったのかと思ってた」
 さも興味なさそうに、啓介は返す。
「志望校、まだ決めてないのか? 3年のこの時期に決めてないなんて、どうするつもりなんだ」
「だってさ、オレはアニキと違って医者になれるような頭もねぇし、出来損ないだからさ、ドコ行ったって同じじゃん? センコーはオレの頭で入れるテキトーなトコ言うんだけどさ、ウチから遠いんだよな〜…」
 シャーペンでこりこり頭を掻きながら、ブツブツと呟く。
「…自分で行きたいと思う学校はないのか?」
「ん〜…ねぇ訳じゃねぇけど…」
 ゴニョゴニョと、啓介は言葉を濁した。
「ならそこを書いて提出すればいいだろう。オマエの担任、槇野先生だろう? 槇野先生はオマエのこと、ちゃんと見てくれる先生じゃないか」
「や〜…そうだけど、ちっとムボーかな〜…なんて…ゼッテェやめとけって言われるに決まってるし」
「…何処なんだ? 啓介」
「―――高校」
 ボソッと呟いた言葉に、涼介は目を見開く。
「え…?」
「〜〜〜だから、T高校、って…」
「―――ウチ、か?」
「やっぱアニキもムボーって思うだろ? オレの偏差値じゃゼッテェ無理だって。受験まで後半年っきゃねぇし…」
「いや…まぁ、シッカリと勉強すれば、今からでも遅くはないと思うが…何故ウチなんだ? オレが言うのも何だが、常に上を目指す勉強ばかりで娯楽なんて無いに斉しい、オマエから見たら息が詰まるような学校だぞ」
「や、知ってっけどさ…だって近いじゃん。すぐソコだし…朝ギリギリまで寝てられるしさ…」
 珍しく歯切れの悪い啓介に、涼介はピンと勘付いた。
「そんな理由で選んだんじゃないんじゃないのか? 他に理由があるんだろう? それは何だ? 啓介」
「だから……〜〜〜って」
「え?」
「アニキとおんなじガッコ行きたいな、って、それだけ…」
 涼介は目を丸くする。
「オレと同じ学校に通いたいって…それだけの理由で?」
「……うん」
 可愛いことを言う、と涼介は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「だが啓介…オマエ、オレと比べられるのが嫌だったんじゃないのか? 今もそうなのに、同じ高校に来たら、また同じ事の繰り返しだぞ。それでもいいのか?」
 涼介の言葉に、啓介は一瞬黙り込んだ。
「―――それはもう、イヤって程味わってきてる。面白くねぇコトばっかだけど、元々オレの人生、面白くねぇモンだしさ。やりたいこととかなんもねぇし、毎日つまんねぇしさ。ドコ行ったって同じなら、だったらアニキの傍にいられる方がいっかな、って…」
「傍にって…同じクラスで授業を受けるのは無理だぞ、啓介」
「そこでボケんなよっ! 勉強ばっかのガッコだって、校内行事とかあるだろ? そ〜ゆ〜ので一緒出来んなら、真面目に行こっかな、って思うっつ〜か…っても重なってんの一年だけだけどさ…オレ、目標とかなんもねぇけど、何か目指すモン作るとしたら、やっぱオレはアニキっきゃねぇんだよ…スゲェあやふやなモンだけど、他に思い浮かばねぇし…目標は高い方が頑張りがいがあるって〜の?」
 そんな言葉を啓介の口から聞けるとは思わなかった。
 昔からずっと比べられてきて、啓介にとって邪魔な存在ではないかと思っていたからだ。
 自分さえいなければ、もっと伸び伸びと自由に生きて来れたんじゃないか、と……。
 それなのに、この兄を目標としてくれる。
 涼介の中で騒ぎ立てる感情を、押し殺すのが大変だった。
「…やっぱムボー? アニキもやめた方がイイとか思う?」
「いや…上昇志向があるのは良いことだよ。オマエにその気があるのなら、オレは反対しない。必死になって受験勉強しろよ、啓介」
 それを聞いて、啓介はぱぁっと表情を明るくした。
「良かった〜。じゃ、受験勉強ヨロシク見てくれよ、アニキ」
「何だ、結局オレに頼るのか」
「だって今までだってそうだったじゃん!」
「はは、まぁいい。じゃ、受験まで寸暇を惜しんで頑張るんだぞ、啓介」
「うぃ〜っす!」
 まさか啓介が、自分と同じ高校を志望するなんて。
 北高か東高辺りを目指すのが妥当だと涼介は思っていた。
 啓介は頭が悪い訳ではないのだから、シッカリと勉強すれば、合格は可能だろう。
 現にこうして教えていても、飲み込みはいいのだ。
 授業に付いていくのは厳しいかも知れないが、根気の強い啓介なら、不可能も可能にしていける筈。
 まだ使い方を分かっていないその才能の使い方を、涼介が教えてやればいい。


 随分前から、涼介の胸の奥に灯っていた、小さな炎。
 それが少しずつ、大きく強くなっているのを、涼介は感じ取る。
 考えると苦しくて、もどかしい、ジリジリとした炎。
 その正体が何なのか、涼介は気付かないフリをした。



 夜が更け、啓介が部屋に戻ると、涼介は入浴を済ませた。
 のぼせた訳でもないのに、動悸がいつもより激しい。
 湯船に浸かってボ〜ッと物思いに耽っていて、脳裏を掠めた《答え》を否定する。
『馬鹿げている…そんなこと、有り得ないだろう…』
 早々に寝てしまおう、と思うが、寝つけそうにない。
 仕方なしに、史浩から貰ってきた車のカタログを鞄から出して、キングサイズのベッドに寝転がる。
 適当に眺めながら、思考をリセットさせようと文字の羅列を目で追う。
 理路整然とした説明文というモノは、涼介の思考を落ち着かせてくれる。
 相変わらず気に入った車には出会えないが、今は別にそれでいい。
 18になるまでだってまだ半年以上あるのだ。
 車は卒業する頃で構わない。
 そう思いながら、何気なく眺めていた涼介は、とある車のコンセプトを見て、目を見開く。
 ドクン、と鼓動が跳ねる。
 ガバッと起き上がって、じっくりと説明を読む。
 それまで出逢ったことのない独特のコンセプトに、我知らず、ゾクゾクした。
 マイナーでありながら、孤高のスピリッツに、プライドを感じる。
『コレだ―――オレの求めていたモノ…コレこそが相応しい―――』
 涼介は時が経つのも忘れる程、そのカタログを熟読した。


 翌朝。
 登校時間にはまだ早いうちに、涼介は家を飛び出した。
 向かったのは、自宅からそう遠くない、史浩の家―――いや、その隣接する、自動車工場。
 従業員達が出勤してきて、登校までの僅かな時間を使って、史浩は整備士から車について学んでいるのだ。
「史浩!」
 息を切らして駆けてくる幼馴染みに、史浩は驚いていた。
 そんな姿は、長い付き合いでも初めて見る。
「涼介…どうしたんだ一体、こんな朝っぱらから」
「この車…マツダのRX―7について、もっと詳しく知りたいんだ。何か分かるようなもの、無いか?」
 皺の付いたカタログを手に、史浩に問う。
 昨日渡したばかりなのに、随分と読み込んだようだ。
「あぁ…もしかしてコレが気に入ったのか? 涼介。ちょっと待ってろ、営業さんに聞いてくる」


 それからというもの、涼介はマツダのロータリー車についてばかり拘って知りたがり、集めるだけ情報を集めて、詳しく調べた。
 知れば知る程、ハマッていく―――。
 こんなに何かに熱中したのなんて、初めてかも知れない。
 受験勉強だって、ここまで熱心に取り組んでいない。
 ロータリーエンジンについての記事を読むだけで、胸が躍る。
 これ程までに胸ときめかせたことが、かつてあっただろうか。
 スポーツカーになど興味なかったのに、この車だけは特別だった。
 車の専門誌から、レース関係の雑誌まで読むようになった。
 何でも出来ながら、無趣味と言って正しかった涼介が、初めて心の琴線に触れた世界。
 車なんてただの移動手段で、走れば何でもいい、そう思っていながら、敢えて拘った。
 乗るなら、このロータリー車に乗りたい、と―――。


◇ ◇ ◇





 晩秋は、日が暮れるのもスッカリ早くなった。
 冷たい雨が降りしきる中、ラブホテルで凛と会い、雨脚が強いことから峠を走ることはやめにして、帰宅する。
 ガレージにFCを停めると、暗い其処に、啓介のバイクが停まっている。
 涼介はドクンと鼓動が跳ね、濡れないように壁伝いに、玄関に向かう。
 乱雑に脱ぎ捨てられた、頑丈なブーツ。
 啓介が高校に合格した時に、涼介がお祝いに贈ったモノだ。
 随分と履き込まれている。
 ちゃんと履いてくれているんだ、と思いながら、逸る鼓動を抑え、「ただいま」と言うのも忘れ、玄関を上がる。
 LDKは暗いから、自室にいるだろうか。
 涼介は急いで階段を駆け上がる。
 すると、一番上に佇んでいた、その姿。
「啓介…っ」
 一体、いつ以来だろう―――涼介は自然と顔が弛む。
 啓介は黙ったまま、ムスッとして階段を下りてくる。
「―――石鹸のニオイさせて帰宅かよ?」
 やや高いその声が険呑と突き刺さり、涼介は鼓動が跳ねる。
 ラブホテルで情事の後にシャワーを浴びた、その匂いがするのだろう。
「アニキ、やっぱオンナとよろしくやってんだ。オレのコトなんか忘れて、ほったらかしにして…」
 刃のように言葉が刺さり、啓介は階段で涼介と擦れ違うと、そのままドカドカと降りていった。
「啓介…ッ、待て! 何処に行くんだ?!」
 くるり涼介も、慌てて階段を駆け下りる。
「オレなんかいねぇ方がイイだろ? アニキはオンナとよろしくやってろよ」
「彼女なんていない! 大学のシャワー室で浴びてきただけだ!」
 啓介を追い掛け、肩を掴む。
 立ち止まった啓介は、ジロリ涼介を見つめた。
 暫く見ない間に、随分と背が伸びた―――成長期の少年は、幼い容貌から脱皮しつつあるのが、如実に分かる。
 啓介に触れているこの手が、心臓になったみたいに、熱く拍動を感じて―――胸の奥が、早鐘を打っている。
「っ、啓介、その…誕生日に、プレゼントやらなくて、すまなかった。何か欲しいモノはあるか? 何でも、オレが―――」
「オレの誕生日なんて、半年も前にとっくに終わってるけど? つーか、ちゃんと覚えてたんだ? 忘れられたかと思ったのに」
「忘れる訳ないだろう! ただ、オマエに会えなかったから、お祝いの言葉も言えなくて…どうせならオマエが欲しいと思うモノをやりたくても、オマエ、家に帰ってこないから…」
 啓介は、ダン、と涼介を壁に押しやり、壁に手を突いて、じっと涼介を見つめた。
 色素の薄い、薄茶色の瞳が、まっすぐに涼介を射抜く。
「アニキ? オレの欲しいモン、何か分かんのかよ?」
「え…だから、それを訊いて、今からでも買ってくるから…」
 ムシがいいと分かっているけれど。
「オレが本当に欲しいモンは、金で買えるモンじゃねぇって前に言ったろ? それに、いくら欲しいと思ったって、手に入れられねぇモンなんだよ!」
 甲高い声が、突き抜けるように胸に響く。
「じゃあ、その…欲しいモノの手伝いをすることは、出来ないか? 何だって、手助けしてやる。どんなことだって…」
 久し振りに会う啓介、余りにも間近で顔を見て、涼介はドクンドクンと鼓動が逸った。
 視線の高さも、前より近付いて―――もう、そんなに身長も変わらなくなっている。
 金茶に染められた髪が、廊下の明かりに照らされて、太陽のように眩しい。
「……んか……そんな気なんか、ねぇ癖に…っ」
 啓介はバッと離れ、ズカズカと浴室に消えていった。
 ズルズルと、涼介はその場にへたり込む。
『オレは…啓介の望むことの手助けも出来ないのか…? オマエの為なら、何だってしてやれるのに…っ』
 激しい雨音が、涼介の呟きさえもかき消した。


 それから、啓介はちょくちょく帰ってくるようにはなった。
 毎日ではなかったが、時間はまちまちでもちゃんと帰ってきて、母親の作った食事を食べ、家で寝ていた。
 高校にもちゃんと行っているようだ。
 もうすぐ期末テスト。
 きっと、「アニキ勉強教えて」とやってくる筈。
 そう思っていたが、部屋のドアは開くことがなかった。
 ならばこちらから声を掛けよう、と啓介の部屋のドアをノックする。
「啓介、いるんだろう?」
 返答はなかったが、部屋の電気が点いているのが分かっていたので、開けてみる。
「啓介、入るぞ」
 相変わらず散らかったままの部屋で、啓介はベッドの上で寝転がって、バイク雑誌を眺めていた。
「啓介、もうすぐ期末テストだろう? 勉強はしないのか」
「いーよ、そんなの。やったって変わらねぇし」
 気の無いような、素っ気ない声を返す。
「そんなことないだろう。オレが見るから、ちゃんとやれ。留年したらどうするんだ。最近の成績はどうなんだ? 赤点は取っていないだろうな」
 足の踏み場がないので、ドアの所に立ち尽くしたまま、涼介は啓介に向かって声を掛ける。
「ずっとほったらかしにしてた癖に、今更オレの成績なんか気になんのかよ? 別にオレが赤点取ろうが留年しようが、アニキにゃ関係ねぇだろ?」
 ぺらりページを捲りながら、言い放つ。
「関係ない訳がないだろう。オマエの大切な人生なんだから、オレが手助けできることなら、いくらだってする。やりたいことがあるなら、オレに出来る限り、アドバイスするし…」
「そんなモンねーよ。ダブッたらガッコなんか辞めてもいーし、そしたらこの家、出てくしさ」
「……にを……何を、言ってるんだ…?」
 涼介はズカズカと、ベッドの啓介の元まで歩み寄る。
 読んでいる雑誌を手で払って、胸ぐらを掴む。
「何すんだよっ」
「オマエには…無限の可能性が詰まっているんだ…今からそれを放棄して、どうする? オマエは、何にだって、なれるというのに…何でも望むことが出来るのに…っ」
「〜〜〜だから! なりたいモンなんかなんもねーし! そんなモン、あるなら教えてくれよ、アニキ!」
 啓介はガバッと起き上がって、涼介の手を払う。
 目標も夢もない、退屈でつまらない人生―――。
 荒んだような瞳の奥に、残っている純粋な心を、涼介は感じ取る。
 何かを期待している―――自分を変えてくれる何かを、期待している瞳。
 そう、かつての自分がそうであったように、啓介とて、今の自分に嫌気が差しているのだろう、だがどうしようもなくて、誰かが変えてくれることを、期待している。
 しかし何を与えてやればいい?
 涼介には未だ、それが思い浮かばなかった。
 いくら弟だからと言って、兄である自分が啓介の未来を勝手に用意して、その通りにさせるのは、違うと思う。
 そう、与えるのはキッカケだけでいいのだ。
 一体、何が―――。
 涼介が固まっていると、ドンと啓介は涼介の胸を押し退けた。
「出てってくれよ! オレ今アニキに何すっか分かんねぇぞ!」
 きつく睨み付けてくる啓介に、涼介はふらふらと、廊下に向かう。
「―――啓介…例えオマエに信じてもらえなくても、オレはオマエを信じてる…オマエのことを、信じてるからな…何かあったら、いつでも声を掛けろ。何だって、してやるから―――」
 背を向けたまま、柔らかく低い声で言い残し、自室に戻る。


 啓介が家にいるのに、遠く感じる。
 物理的な距離は近付いても、心が其処に無いからか。
『啓介…オレがどれだけオマエのことを想っても、それがオマエに通じることはない…弟を《欲しい》と想う、こんな歪んだ欲望は…』
 自分の淫らな感情で、啓介を禁忌の世界に引きずり込むなんて、許されない。
 男同士で、兄弟で。
 こんな穢れた感情など、消えて無くなればいいのに。
 普通に兄と弟として、仲良くやって行けたなら、どんなにいいか。
『オマエに嫌われたくない…軽蔑されたくないから、言えない、オマエが《好き》だなんて―――』








■裏赤城心中恋唄 sample■




 単車で一晩中走っていて、いつも思う。
 朝なんか来なきゃイイ、夜明けなんか来なきゃイイのに、って。
 だって、朝が来たら、またかったるい一日の始まりじゃん。


◇ ◇ ◇


 カーテンの隙間から、朝日が射し込む。
 布団を抱き締めてすぅすぅと眠っていた啓介は、初夏の陽射しの暑さに、ピクッと顔をしかめ、うっすらと目を開ける。
『何か…変な夢見てたような…』
 思考の働かない脳味噌を回転させ、見た夢の内容を思い出そうとしたが、夢はいつも、覚醒するとかき消えていって、思い出せない。
 嫌な夢じゃない、と思うけど。
 少し前までは、見る夢と言ったら、子供の頃の夢だった。
 いつも一緒にいた兄と、遊んでいる夢。
『おれ、にいちゃんだいすき!』
『オレも啓介のことが好きだよ』
 楽しくて、嬉しくて、ふわふわと暖かい夢だった。
 でもここ最近見るようになった夢は、何故か思い出せない。
 それが目標も何もない、現在の自分を表しているようで、無性に苛つく。
『ガッコー行くのかったりぃ…サボッちまうか…』
 半分しか開かない虚ろな目で枕元の時計を見ると、まだ少し早い時間。
 啓介は布団をきつく抱き締め、二度寝を決め込んだ。
 昨夜の帰宅が遅かったので、すぅと眠りに落ちる。


「―――介! おい、起きろ。啓介!」
 肩を掴まれ揺さぶられて、啓介は再び眠りの淵から覚醒させられる。
「ん…アニキ…?」
「いい加減に起きろ。遅刻するぞ」
 制服姿の涼介が、顔を覗き込んでいた。
「眠ィよ〜〜〜」
「遅くまで遊び歩いていたせいだろう。早く起きて、朝食を食べて支度しろ」
 窘めるように言うその言葉は、叱ることしかしない父親と違って、声音が優しくて。
「うぃ〜〜〜」
 仕方なしに、もぞもぞと起きる。
 洗顔と髪のスタイリングを済ませ、制服に身を包んで階下に降りると、涼介が玄関で靴に足を通していた。
「アニキもう出んの? 朝練? にしちゃ遅いか」
「IH県予選はもう終わったから、当分朝練はないよ。日直なんだ。オマエも遅刻しないようにな。いってきます」
「いってらっさーい」
 ちぇ、と口を尖らせながら、啓介はLDKに入っていった。
 食卓に着いて、用意された朝食をもそもそと食べる。
 1人で食べる食事なんて、どんなに豪華だろうと、美味しくもない。
 こんな広いLDKで、他に誰もいなく、時計の秒針と冷蔵庫のモーターの音が、やたらと耳障りだ。
『あ〜ぁ…去年ならアニキも一緒に朝飯食ってたのにな…』
 何だか無性に苛ついてきて、食事をかっ込むと、空いた食器はそのままに、玄関に向かう。
 家の門を出て、見るは涼介の向かった、高校の方向。
 目と鼻の先のその高校が、やけに遠く感じる。
 着ている制服も、パッと見には変わらないのだが、涼介は高校、啓介は中学で―――去年まで、同じ制服だったのに。
 啓介は理由の分からない苛立ちを内に抱えて、逆方向へと歩いていく。
 ずっと一緒だと信じて疑わなかった日々が幻のように、例え一緒に家を出たとしても、目指す方向が、正反対だ―――。


 この春、涼介は県下で一・二を争う進学校、T高校に首席で入学した。
 小さい頃から成績優秀で、中学でもずっと一番だった兄。
 そんな兄が、啓介には誇りで、憧れで―――でも、ずっと追いかけてきた背中は、とてつもなく大きくて。
 追いかけ続けても追いつくことは出来なくて、いつか隣に並ぶことなんて、不可能なのかも知れない。


 退屈な授業も聞かず、啓介は頬杖を突いて、窓の外の青空を眺めていた。
 いつの間にか、出来ていた溝。
 目の前にいた兄は、いつの間にか遙か遠くまで行ってしまった。
 何でオレは、アニキと同じように出来ない?
 何でオレは、こんなに出来損ないなんだろう―――アニキの弟なのに、同じ血を分けている筈なのに。
『もしかしたら、オレは貰われっ子なのかも』
『だってアニキはAB型で、オレだけO型じゃん』
 子供の頃、涼介にそう言ったら、呆れたように微笑って言った。
「お父さんがA型でお母さんがB型で、その場合、A型、B型、O型、AB型、全ての血液型の子供が生まれるんだよ」
 そんな風に説明してくれたけど、だからってそれが、オレが貰われっ子じゃないって証明にはならない、って聞き流してた。

《何で兄のように出来ないんだ》
《兄は優秀なのに、それに比べて弟は》
 親も教師も、口を揃えたように同じ事を言う。
 そんなの、オレが一番思ってる。
 オレが一番知りたいのに。
 何でアニキと同じように出来ないんだろう。

 理由の見つからない苛立ちで、喧嘩と単車の暴走に明け暮れる日々。
 そんな毎日に、嫌気が差しても、他にどうすることも出来ない、ジレンマ。


 両親・周囲の期待通りに、父親の跡を継ぐべく、医者への道を目指す涼介。
 それに比べ、何もない自分、誰も何も期待などしていない。
 このまま、涼介も遠くに行ってしまうのだろうか。
 自分を分かってくれる人間は、いなくなるのだろうか。


 感情を持て余し、煙草を銜える。
 美味くもない煙草の煙を吐き出し、紫煙の消える先をぼ〜っと見ていた。
「まるでオレみてぇ…」
 目標も何もない、つまらない、空っぽな毎日。
 単車で走り回っても、靄靄は晴れない。

 オレは、何の為に、生きている―――?



 今日も変わらず、自暴自棄に過ごす啓介は、美味くもない煙草を銜える理由を考えた。
 そんなことを考えてしまう、理由を考えた。
 答えなんて、いつも出ないけれど。
 コンビニ前でしゃがみ込んで、煙草を燻らせていると、野良猫が寄ってきた。
「来〜い来い…」
 ちょっと撫でてやろうと思ったけど、つるんでる馬鹿な連中のせいで、野良猫は逃げていく。
 舌打ちをして、煙草をアスファルトに押しつけた。
 そう、オレの周りにいるのは、ロクでもない野良犬。
 ソイツらが憂鬱という名の下らない手土産を持って、今夜もやってくる。

 夢も目標もないままに、今夜も夜の国道を、駆けていく―――。


◇ ◇ ◇


 前橋・高崎辺りで最大勢力を誇る暴走族、紅蠍隊(クリムゾン・スコルピオンズ)の幹部に目を掛けられ、可愛がられている啓介は、持て余したエネルギーを、チーム同士の抗争でぶつけて、喧嘩に明け暮れていた。
 無免許で単車を転がし、警察沙汰になることもしばしばだ。
 家に散々迷惑を掛け続け、親にはとうに見放された。
 叱られてばかりいた日々が遠く感じる程に、叱ることさえ、放棄した―――《アレ》はダメだ、と決めつけて―――。
 あんな窮屈な家に、オレの居場所なんか無い―――。


「いてて…」
 深夜過ぎ、自宅に帰った啓介は、靴を乱雑に脱ぎ捨てて、ドスドスと広い廊下を歩き、豪奢な階段を通り過ぎて、奥の階段に向かった。
 ドカドカと階段を上がっていくと、自分の部屋の隣のドアが開いて、涼介が顔を覗かせる。
「何時だと思ってるんだ。父さんも母さんももう寝ているんだから、静かにしろ」
「フロア別なんだから、聞こえちゃいねぇだろ。聞こうとしねぇの方が正しいか」
 そう吐き捨て、洗面所に向かう。
「オレが聞いている。遊び歩くのは勝手だが、せめてもう少し早く帰ってこい。夜中に警察から電話がかかってくるようなことはするな」
「へいへい、パクられねぇようにすりゃいいんだろ?」
 水で血や泥を洗い流しながら、右から左へ聞き流す。
「そういう問題じゃない。…怪我してるのか?」
 洗面所までやってきた涼介は、啓介の様子を見て、息を吐く。
「また喧嘩か。手当てしてやるから、部屋に来い」
 日常茶飯事でしょっちゅう怪我をして帰ってくる啓介の為に、涼介の部屋には救急箱が常備されていた。
 ベッドに座らせて、怪我の箇所を消毒していく。
「いてて、沁みる、沁みる!」
「消毒くらいで叫ぶな。殴られるよりはマシだろう。沁みない消毒薬もあるが、オマエの場合、沁みる消毒薬の方が懲りてくれるかと思ってな」
「アニキ、サドかよ? オレが痛がるの楽しんでねぇ?」
「そうかもな」
「ちぇ」
 手際良く手当てする涼介を、啓介はじっと見つめていた。
 呆れながらも、涼介はいつも、こうして丁寧に手当てしてくれる。
 喧嘩に明け暮れる啓介を窘めながらも、ちゃんと相手してくれる。
 怪我をすれば、涼介が手当てをしてくれるから、無傷で済ませられるのを、わざと怪我したりもしていた。
 自分を見て欲しい、構って欲しい。
 それを試したくて、アレコレと馬鹿なことをしている。
 そんな毎日。
「啓介…この家が窮屈で何もかもが面白くなくて荒れるのも分からなくはない。でもな…喧嘩をするなとは言わないが、いくらオマエが強くても、いつ取り返しのつかないことになるか分からないんだ…オレに心配ばかりかけさせるな」
 切れ長の瞳が、真っ直ぐに啓介を見つめる。
「アニキは…オレのコト、オヤジ達みてぇに見放さない?」
「何言ってんだ、当たり前だろ。オレ達はこの世でたった2人きりの兄弟なんだ…オレはオマエを見放したりなんかしないよ、絶対に」
 優しい声音で言ってくれたその言葉が嬉しくて、啓介は子供のように涼介に抱きつきたい衝動に駆られた。
 しかしいい年をしてそれはガキじゃあるまいし、とグッと堪える。


 自室に戻り、キングサイズのベッドに寝転がって、啓介は天井を見つめた。
 小さい頃から、涼介は啓介にとって憧れで、ずっと、涼介のようになりたいと思ってきた。
 でも、どんなに頑張っても、涼介のようになれるどころか、差は開く一方で。
 目指す憧れがすぐ傍にいるのに、遠く感じる。
 比べられて、嫌な思いは散々してきた。
 だが、比べられるのは、同じ血を引いた兄弟だからだ。
 何にも変えられない、切れることのない、強い絆。
 それを嬉しいと感じる自分は、マゾなのだろうか?
 親や教師に見放されようと、涼介さえ自分を見てくれるなら、信じてくれるなら、それで充分だ―――。
 そう、思っていたけれど。
 最近、何か変だ。
 涼介が自分を見て、信じてくれればそれでいい、と思いながら、《それ以上》を望むようになった。
 何をどう、《それ以上》なのかは分からないけれど。
 涼介のことを考えると、無性に胸の奥が熱くなる。
 ジリジリと、夏の陽射しより熱い、これは一体何だろう?
『アニキみてぇに頭良くねぇから分かんねぇや…』
 理由の見つからない苛立ちと、焦れた感情を持て余し、ただ惰性で繰り返すだけの日々が、意味も成さずに過ぎていく―――。


◇ ◇ ◇





◇ ◇ ◇


 秋が深まり、山が紅葉して色づいても、啓介の目には、モノクロにしか映らなかった。
 季節感なんて、分かりゃしない―――暑いとか寒いとか、そんな感覚さえも麻痺してる、このカラダとココロ。
「啓介〜、オマエ全然家帰ってねぇだろ? たまにゃ帰らなくてもいいのかよ?」
 倉庫に住んでる幹部のヤツが、入り浸っている啓介に、ふと言った。
「いいんすよ、帰ったってオレの居場所なんかねぇし、―――誰が待ってる訳でもねぇし」
 自暴自棄に、吐き捨てる。
「―――ま、オレも勘当されてる身だから、オマエの気持ちも分からなくはねぇけどさ。ゆくゆくはオマエにチーム任せてやってもいいって思ってんだけど、やっぱ気持ちは変わらねぇ訳?」
「ずっと世話ンなってて悪ィっすけど、オレそ〜ゆ〜のガラじゃねぇんで。切り込み隊長のままでいいっすよ」


 いつもの溜まり場で、新しい単車の話とか、学校で教師と一悶着起こしたとか、どうでもいいような話題を、適当に聞き流していた。
 煙草を燻らせていると、群れの一角が、ざわついている。
「高橋啓介さんは、いますか?」
 聞いたことのない、男の声。
 啓介は気怠げに立ち上がり、歩み出る。
 一見して整備士と分かる、ツナギ姿の男が、まっすぐに啓介を見つめた。
「―――啓介さん、ですね?」
「そうだけど…アンタ誰」
 穏やかな容貌をしているが、一癖ありそうな、雰囲気のあるその男に、つっけんどんに啓介は返す。
「アナタを、連れ帰りに来ました」
「はぁ? 何言ってんだ? 連れ帰るって、ドコに」
「勿論、ご自宅ですよ。ずっと帰っていらっしゃらないでしょう。涼介さん―――お兄さんが、大変心配されています。オレが送っていきますから、帰りましょう」
「アニキが? 心配してるって? ハッ、だったら何でずっとオレのコトほったらかしでいるんだよ? あんな家、もう帰らねーよ。オレは一人で生きてくんだ。アンタが誰か知んねぇけど、アニキにでも頼まれてきた訳? じゃあアニキに言っといてくれよ。オレのコトなんか忘れちまったアニキなんて、もう縁切ってやる、ってな」
 自分で口に出しながら、言葉に含めたトゲが、ちくちくとココロに刺さって―――とっくに忘れたと思っていた痛みが、胸を貫く。
 痛む胸を押さえて、くるり踵を返すと―――男に肩を掴まれた。
 一見優男なのに、掴まれた肩が、軋むように痛い。
「痛ぇなっ、何す―――」
 骨まで破壊されそうなその力に、文句しようとしたら―――男のもう片方の拳が、啓介の腹に深く突き刺さる。
「ぐは…っ!」
 内蔵まで潰されたかのような、重いパンチ。
 これまで喧嘩では負け知らずで来ている啓介が、たった一発のパンチで身体がくの字に折れ、胃液が逆流しながら、アスファルトに膝を突いた。
「ガキが生意気言ってんじゃねぇぞ。責任も取れねぇヒヨッコが、大人ぶってんじゃねぇ」
 男はぐいっと啓介の胸ぐらを掴んで、ドスの利いた声で、言い捨てる。
「あっ…コイツ、どっかで見た顔だと思ったら…黒松組の若頭、昇り龍のシュウ―――ッ!」
 紅蠍隊の連中がざわついている中、啓介はそのまま、意識が遠のいていった。



 気が付くと、啓介は自宅の門の前で、行き倒れのように、転がっていた。
 ポツポツと雨が降ってきて、次第に雨脚が強くなっていく。
「いて…」
 あれからどれくらい時間が経ったか分からないが、付近の住宅の家の明かりが殆ど点いていないのを見ると、夜中なのだろう。
 腹を押さえながら上体を起こすと、門の所に啓介の単車が停めてある。
 あの男がご丁寧に単車も家まで運んで、啓介を地べたに転がしていったんだろう。
「ったく…コレで連れ帰ったっていうのかよ…宅配便よりタチが悪いぜ…」
 単車を押して、ガレージに停めようと、門の中に入っていく。
 が、そのガレージには、涼介の車はなかった。
「んだよ…アニキいねぇんじゃん…心配してるとか、どうせ体裁とかで言ってんだろ、オヤジ達みてぇに…」
 久し振りの我が家に入り、まっすぐに自分の部屋に向かう。
 泥と雨で汚れた服を脱いで、ドアの前に洗濯されて畳まれて置かれていた服に着替える。
 外は土砂降りに変わっていった。
「オレの心の中も土砂降りだっつの…」








■赤城心中恋唄・弐 sample■




 風薫る5月の終わり頃。
 凍結が溶け、大型連休による観光シーズンが過ぎた赤城の峠で、走り屋達の間で噂になっているクルマがあった。
 突如現れた、鬼のように馬鹿っ速い白のFC。
 群馬でもレベルの高い赤城の走り屋達の誰も敵う者はなく、それが誰なのかも分かっていない。
 いつしか、そのFCは走り屋達の間で、こう呼ばれるようになっていた。
 あっという間に視界から消えていく。
 《赤城の白い彗星》と―――。


◇ ◇ ◇


 週末、FCを定期点検に出す為に史浩の家の自動車工場にやってきた涼介は、まるでそれも定期コースであるかのように、史浩の部屋に寄っていた。
「最近赤城で噂になってる馬鹿っ速い白のFCって、オマエのことだろ、涼介」
 淹れ立ての熱い紅茶をテーブルに置きながら、史浩は幼馴染みを見遣る。
「他に赤城で白いFCに乗っている奴がいなければ、そうだろうな」
 有り難う、とソーサーを引き寄せ、ティーカップを手に取ってそう返した。
「ずっと平日の深夜過ぎにしか行っていなかったのに、早い時間や週末にも行くようになったんだって? 水くさいな、オレも誘ってくれよ」
 ドサッと腰を下ろしながら、史浩はスティックシュガーをカップに落とし入れ、スプーンで掻き混ぜる。
「すまんな。ちょっと1人で色々試していたんだ。それには連れがいない方が便利だったんで…まぁ大体手応えは掴めたから、点検が済んだら―――今日にでも、行くか? 史浩」
 ストレートのまま紅茶に口を付ける涼介は、砂糖入れすぎだぞ、と言いながら、史浩を伺った。
「そうだな。峠でオマエがどんな走りをするのか、見てみたいよ。オレみたいなのが一緒じゃ、場違いかも知れないけど」
「はは、何言ってるんだ。オレも聞いた噂があるんだがな。週末になると現れる、やたら速いマリナーブルーのロードスターがいる、って…史浩のことじゃないのか?」
 チラ、と涼介は史浩を見据える。
「えっ。や〜、まさか。オレなんか涼介の足もとにも及ばないよ。まぁそれはさておいて、啓介の様子はどうなんだ? 夜中に啓介のバイクの音が聞こえてくるから、帰ってきてるみたいだけど…」
 話題転換した史浩の問い掛けに、涼介はトクンと鼓動が跳ねた。
 動揺を悟られないように、紅茶を一口含む。
「あぁ、毎日じゃないんだが…中間テスト前は、ちゃんと早い時間に帰ってきて、勉強を見たよ。仲の良いクラスメイトも出来たようだし、高校もキチンと行っている」
「へぇ…そうか、良かったよ。松本さんに訊いたけど、紅蠍隊の連中とは最近余り連んでないようだ、くらいしか分からなくてさ」
 でも良かった、と史浩は純朴な笑顔を見せた。
 その屈託のない笑顔が、涼介には後ろめたさで、目を逸らしたくなる。
 誰にも言えない、血の繋がった弟と、禁忌と関係を結んだなんて―――。


 去年のクリスマスイブに、啓介と身体の関係を結んだ。
 ずっと擦れ違い続けた気持ちが通じ合って―――あれ程の悦びは、初めて味わった。
 まさしく、天にも昇る程の、至福。
 明日この世が滅びてもいいと、思ったくらい―――いや、本当に滅んだ方が良かったのかも知れない。
 あれから半年近く経つが、あの日以来、啓介とは身体を重ねることはなかった。
 勿論、何度も啓介には請われた。
 だが、その度に体のいい言い訳を用意して、断り続けている。
 本音を言えば、涼介とて、啓介が欲しい。
 しかし未来に無限の可能性を秘めている啓介の世界を、己のエゴで狭めさせる訳にはいかなかった。
 たった一つの未来しか用意されていない涼介と違って、啓介には、沢山の可能性がある。
 一本気で純粋な啓介は、涼介が許せば、のめり込んで他が見えなくなってしまうだろう。
 涼介はそれを恐れた。
 啓介には、自分が見ることの許されない夢を、望むことの出来ない未来を、叶えていって欲しい―――それが《何》かは、今はまだ、分からないけれど。
 その為に、この穢れた欲望は、永劫に封印すると決めた。
 だが―――……。
 日増しに、募る啓介への強い想い。
 《啓介が欲しい》と、心が、身体が、訴えている。
 気持ちを秘めていた時以上に、強く訴えている、本能。

 啓介が、欲しい―――。

 こんなに苦しむのなら、気持ちが通じ合わなければ良かった。
 クリスマスイブの前日までも、確かに苦しみ悶えていた。
 だが、通じ合ったことで、一層苦しむようになるとは、あの日あの時まで思いもしなかった。
 そう、気持ちが通じるとは、想いが叶うとは、思っていなかったから。
 人生に於いて、全てを千手先まであらゆるパターンで考えて行動してきた涼介は、この想いが叶うとは思っていなかったから、もし叶ったら、という可能性を、そうなった未来のことを、考えていなかったのだ―――。


 啓介への穢れた欲望を抑え込む為に、この想いは忘れようと、涼介はクルマに打ち込んだ。
 大学が終わると赤城に行き、遅くまで走り込む。
 他の走り屋達から《赤城の白い彗星》と呼ばれていると、史浩から聞かされた。
 突如彗星のように現れたかららしいが、随分前から赤城を走り込んでいた涼介には、湧いて出たお化けじゃあるまいし、と思う。
 まぁ今まで人目に付かないようにしていたのだから、幽霊と言われるよりはマシか、と誰が付けたか知らないが、そのネーミングセンスは割と気に入っていた。
 たまに史浩も赤城に来るが、史浩と一緒に走ることは殆ど無く、基本的に1人で走っていたので、《一匹狼》とも呼ばれているらしい。
 大抵の走り屋はチームを作ってそれに属していたから、涼介の存在は異色だったのだろう。
 馬鹿っ速いという噂を聞きつけて、赤城一を自負する連中からバトルを挑まれることもしばしばだったが、負ける筈もなく、連戦連勝、それもぶっちぎりで、《赤城の白い彗星》の名は、群馬中に轟くようになっていった。


◇ ◇ ◇


 今年も、群馬に暑い夏がやってきた。
 期末テストを控えて、部活禁止期間に入ったT高校にて。
 昼休み、英語部の部室で弁当を食べながら、啓介はぶすくれていた。
「高橋〜、メシ食いながらその辛気くさいツラはやめろって。こっちのメシまで不味くなる」
 英語部の部長であり、啓介のクラスメイトでもある久木が、ウンザリしたように、言い放つ。
「じゃあ見んな。楽しくもねぇのにニコニコなんか出来ねぇっつの。つ〜かだったら出てけ」
 もそもそと白米を頬張りながら、啓介は言い捨てた。
「あのな、オレは此処の部長なの! オマエは殆ど活動してねぇ幽霊部員だろうが。オマエが出てけ」
「テストのヤマ当ててくれるっつったから来たんだっつの」
「だったらその辛気くさいツラやめろ。笑えなんて言わねぇから、メシ食う時くらい、《動植物の命を戴きま〜す》って感謝して食えよ」
「…オマエ、ナントカ技師より保育士とかの方が合ってるんじゃね?」
「はは、オレの《カノジョ》が保育士だけどな」
 《カノジョ》という言葉に、啓介は眉を寄せ、弁当の残りをかっ込んだ。
 久木の《カノジョ》は、3つ年上の、《男》である―――。
 自販機で買ってきたお茶で喉を潤して、啓介はポケットをまさぐった。
「―――なぁ久木、煙草持ってる?」
 カラの煙草のケースをクシャッとポケットの中で握り潰して、久木を伺う。
「んなモン学校に持ってきてる訳ねぇだろ。一応オレ、学校じゃ《優等生》やってるから」
 しれっと返して、食べ終わった久木は弁当箱と水筒を片付けた。
「てか高橋、煙草あんまり吸わないようにしてたんじゃなかったっけ? アニキとの約束とかで」
「アニキとの約束は《18になるまで吸うな》だから、18になったから吸ってんの」
 涼介から貰ったジッポの火をつけながら、気のない返事を返す。
「そっか、高橋ってもう18なのか。オレ早生まれだからさ〜。つ〜か高橋のアニキって変わってるな。教師やら何やらから覚えめでたき優等生で模範生だったのに、普通、お酒も煙草もハタチから、だろ? 18って言うか?」
「身体に良くないから吸わないに越したことはないとか言われたけどな」
 机に突っ伏して、ユラユラと揺れる火を虚ろに見つめた。
 ジリジリと、身体の奥底から燃えさかってくる、熱い衝動。
「っだ〜〜〜〜っ、もう! マジ欲求不満! 頭オカシクなるっつの!」
 カチンとジッポの蓋を閉じて、ぎゅっと握り締めて、啓介はおもむろに叫んだ。
 座っているパイプ椅子が、軋んで金属音を立てる。
「はは、高校男子なんてみんなそんなモンだけどな。夏なんて特に、四六時中、えっちのコトしか考えてねぇ、ってな」
「オマエも同じ高校男子だろ〜が。悟ったような言い方してさ、毎日ヤリまくってっから欲求不満なんて感じねぇってか?」
 ギロ、と啓介は久木を睨んだ。
「別に毎日じゃねぇよ。相手社会人一年目だし、ガキンチョ相手って結構パワーいるみたいだし、疲れてるから今日はダメ〜とか言われてるぜ?」
 しれっと言いながら、テスト範囲の紙を眺めて教科書を開く。
「でもヤッてんだろ? い〜なぁ…アニキ全然ヤらせてくんねぇんだよ…もう身代わりなんか要らねぇだろ? もし身代わりカレシとかとヤッてたら相手殺す! マジで!」
「一つ屋根の下で毎日一緒に暮らしてんだから、いくらでもチャンスあるだろ? マジであれから一度もヤらせてもらえてない訳?」
 久木の問い掛けに、啓介はコクンと頷いた。
「だってさ、しよ、つっても、いつオヤジやオフクロに見つかるか分からないから、とか言われてさ〜…」
「まぁ確かにそうだな。ウチの親父も帰ってくる時間まちまちで、早かったり遅かったりするからなぁ…出張で家を空けたと思ったら、イキナリ帰ってきたりするし…自分に置き換えたら、高橋のアニキがダメって言うのも分からなくはないな」
 危険すぎる、と父親が群大病院の医者である久木はふぅと息を吐いた。
「もう苛々しっぱなしだっつの! あ〜煙草吸いてぇ…」
「デカイ声で言うなって。先公が聞いてたらまたどやされるぞ」
 呆れたように、久木はポケットをまさぐって、ポイッと何かを啓介に向かって投げた。
 啓介の目の前に転がったのは、イチゴキャンディ。
「口寂しいんなら、キャンディでもしゃぶってな」
「アニキみてぇなこと言うな。つぅかポケットに飴玉入ってる高校男子って何なんだ、オマエ…」
 顔をしかめながらも、啓介は包装紙を開いて、キャンディを口に放り込む。
 甘いモノが嫌いではない啓介は、暑さで泣いているキャンディの甘さが舌に広がって、少しだけ落ち着いた。
 あくまでも、少しだけ、なのだが。
「はは、オレも口寂しくてよ、ってか。近所に大阪から引っ越してきたオバチャンいてさ、挨拶する度に、何故か、飴ちゃんいる? っつってくれるんだよ」
 久木のポケットにはいくつキャンディが入っているのか、もう1つ取り出して、自分の口に放り込んだ。
「つぅか男子校でナニ気色悪ィコトしてんだろな、昼休みに飴を遣り取りして舐めて、女子高生かっつの…」
 コロコロと口の中を転がすキャンディで、頬を膨らませる。
「まぁいいじゃん。高橋はキャンディよりアニキのぶっといキャンディしゃぶりたいよ〜って顔に出てるぜ」
「久木…ソレ笑えねぇよ…」
「ま、アホな話はおいといて、ホラ、テストのヤマ当ててやっから、教科書出せって」
「へ〜い…」
 隣の前橋市が全国最高気温を記録したその日。
 窓の外は、恨めしい程に蜃気楼が揺らめいていた。

◇ ◇ ◇


 夏休みに入った涼介は、群馬近郊のサーキットに史浩と行ったり、ジムカーナの競技会に出たりしていた。
 何処に行っても、涼介はダントツのラップタイムを叩き出して、峠の走り屋達だけでなく、レーシング業界でも名が広まっているらしい。
 クルマに負担を掛け通しなので、前以上にこまめにメンテナンスをしてもらうようになった。
 担当整備士は、勿論、松本修一。
 若いのに、この自動車工場で一番優秀なメカニックだった。
 勉強熱心で、整備士の学校を出てからも、今でも更なる上の資格取得をしていると聞いた。
 涼介の望むように、いやそれ以上に仕上げてくれる松本に、涼介は全幅の信頼を預けている。
「―――とまぁ、今回はこんな感じです。何か質問はありますか、涼介さん」
「いや、ないよ。相変わらず、松本さんの知識と技術は素晴らしいよ。コッチのことも勉強してるだろ。流石のオレも松本さんには敵わないな」
「何言ってるんです。適材適所、ですよ。RPGと同じです。涼介さんが勇者なら、何でもこなせても、戦士や魔法使いよりその分野で強くなくてもいいんです。オレはアナタの専属メカニックですから、涼介さんが目指すモノの為に、それに見合う以上の能力を身に付けるだけですよ」
 松本は穏やかに微笑んだ。
 積み重ねていった信頼で、2人の間の関係性が、少しずつ変わってきていた。
「有り難う…お陰で助かっている。まぁ、啓介のことでも、世話になっているけど…」
「最近はどうです? ちゃんとご自宅に帰られてますか?」
 上げていたボンネットを閉じて、松本は涼介を伺う。
「あぁ、去年の秋頃よりは、マメに帰ってくるようになった。相変わらず遅い時間だけど…松本さんは、何か聞いてるか? 紅蠍隊の連中とは余り連んでないらしいってのは、史浩づてに聞いたんだけど…」
「そうですね、然るべきスジに調べてもらってるんですが、啓介さんは元々紅蠍隊の正式メンバーではなく、でも幹部達に可愛がられていることから、切り込み隊長をしているようです。ですが最近は、幹部連中がクルマに乗るようになったら、距離を置くようになったとか…でも啓介さんには、啓介さんを慕う舎弟が大勢いるらしく、その舎弟を引き連れて、あちこちと単車で流してるみたいです。売られた喧嘩は買っているようですが、啓介さんの側から売ることはないようですね」
「そうか…最近は警察から電話が来たりということは無くなっているけれど、暴走行為や喧嘩は相変わらずか…そんなコトじゃなくて、他に打ち込めるモノを見つけられればいいんだが、啓介は聞く耳を持たなくてな」
 ふぅ、と涼介は息を吐く。
「啓介さん、18になったでしょう。クルマの免許も取れるようになりましたが、クルマが嫌いのようですね。単車は大事にしているみたいですけど…まぁ、周りから見たら馬鹿げていて意味のないことでも、その中である日突然、キッカケは生まれるモノですよ。泥沼の中を藻掻き足掻いていけば、いつか必ず岸に上がることは出来ます。啓介さんの些細な変化を見逃さないように、涼介さんは持ち前の観察力を大事にしていればいいんじゃないですかね。外でのことは、オレも手下の者を使って、何かあったら、逐一報告しますよ」



 時間を最大限に有効に使う涼介は、夜は峠に充て、この夏休みは、サーキットやジムカーナに行く以外は、サークル活動に参加したり、漆原教授の研究室で、依頼された作業や実験をしたりと、公私ともに充実している、の見本のような日々を送っていた。
 しかし、胸の奥が、身体の中心が、熱く疼く。
 空洞だった心には、ガラスのコップが置かれて、でも何処かにヒビが入っているのか穴が開いているのか、潤うことはなかった。
 いや、一度潤ってから、段々と漏れだしていき、空のコップが、水をくれ、と訴えている。
 ただの水ではない。
 涼介の心と身体を潤してくれる―――そう、啓介が欲しい、と訴えているのは分かっている。
 でも、それは出来ないから、別の水を入れてみても、やはり穴が開いているせいで、満たされたと思っても、すぐに乾いていく―――。

 ふと真夏の太陽を見上げる。
 啓介の笑顔のように、眩しくて―――でも、思い浮かぶのは、怒ったような顔。
 求められても、断ってばかりいるからだ、と分かっている。
 《そのこと》以外で、啓介の笑顔が見たい―――どうすれば見られる?
 昔に戻ることが出来ないなら、前に進むしかないけれど、啓介の目の前の道は、どんな未来に繋がっているのか―――……。
「おい、また太陽を見上げて、ぶっ倒れる気じゃないだろうな」
 大学の敷地内のど真ん中で、答えが見つからずに思考を飛ばしていたら、背後から声を掛けられた。
「北条先輩…」
 KCを纏った凛が、悠然と歩きながらやってくる。
「夏休みだってのに、大学まで来て、熱心だな、涼介は。まだ2年なんだから、今のうちにもっと遊んだらどうだ?」
 凛の言葉に、クス、と涼介は笑う。
「夜に充分遊んでますよ。北条先輩は、休憩時間ですか?」
「あぁ。夏休み期間だから、割と時間はあるんだ。休みもあるしな…」
 だが流石に病棟実習は忙しいようで、少し痩せたんじゃないかな、と涼介は思った。
「北条先輩…夜、時間ありますか?」
「あぁ? まぁ…赤城に付き合えってんなら、断るぞ。オマエ、随分有名になってるしな…下手に目立ちたくない。オレのマンションで良けりゃ、後で来い。話ぐらいは聞いてやる」
 その《意味》は、2人にしか分からない、合図―――。





 ゴールデンウィーク、最後の日。
 今日は、啓介の誕生日だ。
 啓介は朝から出掛けている。
 行き先は分かっている。
 涼介は、啓介への誕生日プレゼントを、用意していなかった。
 そう、今日はまだ。
 だが、どうするかはちゃんと決めてあった。
 啓介が帰ってくるのを―――あのドアをノックもせずに開けるのを、待っている。


 ノートパソコンに向かっていると、トントン、とドアがノックされた。
「どうぞ」
 ノック2回はトイレの確認なんだが、と思いつつ、涼介はちゃんとノックされたことに、内心驚きもあった。
 カチャ、と遠慮気味に、ドアが開く。
 そ、と入ってくる啓介。
 涼介はゆっくりと椅子を回転させ、振り向き、啓介の言葉を待った。
「―――その、オレ…クルマの免許、取ったから」
 ぶっきらぼうに、啓介は告げる。
「そうか。クルマは何乗りたい?」
 多くは語らず、それだけ返す。
「……キと、アニキと、おんなじの…乗りたい」
 ドアの前に突っ立ったまま、頬を染めて答えた。
 その答えに、涼介は僅かに目を見開く。
「オレのクルマは、フルモデルチェンジされたから、後継のクルマになるが…」
「え…おんなじの、もうねぇの?」
「特別限定車だったから、探せば中古ならあるかも知れんが…他人が乗っておかしな癖の付いたクルマより、新車の方がいいだろう。オレのクルマは型名がFC3Sというが、後継のFD3Sというのが、先日出たばかりだ。カタログもある」
 涼介は机の引き出しから、1冊のカタログを取り出した。
 史浩の所から、定期的に貰っている、マツダのロータリー車のカタログ。
「ホラ、来い」
 なかなか傍に来ない啓介に、涼介は呼び寄せた。
 啓介は吸い寄せられるように、机の上に広げられたカタログを覗き込んだ。
「へー…おんなじRX―7でも大分デザイン違うんだな…」
「だが同じロータリーエンジンだし―――…」
 涼介は蕩々と説明をし、啓介は分かっているのかいないのか微妙だったが、フムフムと熱心に聞いて、このクルマを買うと決めた。


「じゃあ、このクルマがオレからの誕生日プレゼントだ。これからショップに行って、頼んでこよう。納車されるのが少し先になるが、それは我慢してくれ」
「あっ! てかオレもアニキに誕生日プレゼント…用意してねぇ;」
「別に要らないよ。善は急げ、行ってこよう」
 涼介は立ち上がって、スタスタと部屋を出て行く。
「ホラ、オマエも来い」
「えっ、何で。クルマ買うのに乗る人間も行かなきゃなんか? 免許証がいるとか?」
「何言ってるんだ、自分のクルマだろう? オレに任せきりにするつもりか? 単なる移動手段としてクルマが欲しいというなら、それでも構わないが?」
 くるり振り返り、啓介を見据える。
「やっ、違ぇよ! 行くって!」
 慌てたように、啓介は涼介を追い掛ける。
「フッ、史浩も久し振りにオマエに会いたがっている。さぁ、行こう」


 夕暮れ時、涼介と啓介は、自宅から程近い、自動車工場に向かう。
 久し振りに並んで歩く、啓介は何故かドキドキして、チラリ隣の涼介を見遣った。
『アレ…何か目線の高さ、前よか近くなった…?』
 改めて気付いた、自分が大分身長が伸びていることに。
「どうした? オレの顔に何か付いているか?」
 涼介も内心鼓動がかなり逸っているのは、悟られないようにした。
「あ〜いや…何つ〜か、アニキ縮んだ?」
「それを言うなら、オマエが身長伸びたんだろう。オレはもう伸びないだろうが、オマエはまだ伸びている最中だからな」
「そっか、アニキってもう21だっけ…」
 以前話していた、《男はハタチまで伸びる》というのを、思い出す。
「アニキって何センチ?」
「183だ。オマエは…180くらいか? フッ、本当に追い越されるかもな」
 啓介の身長を目視で測りながら、涼介は笑った。
「え〜っ、後一年で3センチ以上とか、中学や高校時代じゃあるまいし、そんな伸びっかなぁ〜」
 背後に伸びている2つの影が、3年前に比べれば、ほぼ同じ長さになって、並んでいる。
「まぁオマエの場合、その逆立てた髪で、傍からはオレと同じくらいに見えるだろうな」
「へへっ、アニキと身長差結構あったからさ、ちっとでも高く見えるように…なんつって」
 まるで昔に戻ったように、和気藹々と話しながら、工場に隣接するショップに入っていく。

 営業担当との申込手続きを済ませると、史浩が勉強している工場に向かう。
 今日も史浩は、熱心に学んでいた。
「おっ、涼介に、啓介も。珍しいな、2人揃って此処に来るのは」
 何年振りだ? と史浩は作業の手を止め、やってくる。
「はは、啓介がクルマの免許取ったから、クルマを買いに来てたんだよ。オレからの誕生日プレゼントにな」
「へぇ、何にしたんだ?」
「FDだよ。コンペティションイエローマイカの」
「涼介と同じセブンか。しかしイエローとは、そりゃまたハデな…啓介らしいと言えば、それまでだけど…」
 ほー、と史浩は感心したように息を吐く。
「しかし相変わらず仲が良いな、オマエ達は。クルマまで新旧とはいえお揃いにするなんて…涼介が勧めたのか?」
「いや、啓介がオレと同じクルマに乗りたいって言うから、それでFDをな」
「ロータリーは乗りにくいぞ〜、啓介。まぁオマエは小さい頃から運動神経良いから、大丈夫だろうけど」
 はは、と史浩は笑った。
「そんなに乗りにくいのかよ? さっきのアニキの説明だけじゃ、ピンとこねぇんだけど」
 ココに来るのは確かに久し振りだな、と啓介はキョロキョロと辺りを見ながら返す。
 荒れていたり、クルマを見るのが嫌で何となく遠ざけてきたけど、そのクルマだらけのこの環境は、実際に足を運んで身を置いてみると、嫌どころか落ち着く気もした。
「実際に乗ってみないと、口で説明するだけじゃ分からないだろうな。オレのFCを運転してみるか?」
「えっ、いいのかよ? 若葉マークなり立てのオレに運転さしてくれんの?」
 涼介の言葉に、ぱぁ、と啓介の瞳が輝く。
「運転しなきゃ、上達もしないだろう。啓介、オレに誕生日プレゼント、くれるか?」
 落ちる夕日が、バックライトのように涼介を照らす。
「へ? なに」
「オマエの運転で、ドライブ―――この辺りをぐるっと、な」
 ささやかなデートをしよう、と言う意味なのだろうと、啓介は気付いた。
 でも大事なクルマを運転させてもらうのがプレゼントになるのか? と思いつつ、《一緒に過ごしたい》と言う意味だと解釈した。
 クルマを運転できる、涼介とデートできる、その2つに、啓介はぱぁっと胸が高揚する。
「はは、何だ、それって誕生日プレゼントって言えるのか? まぁ《モノ》を欲しがらない涼介らしいけど」
 因みに史浩は、涼介が特に欲しいモノはないといつも言うので、今年はエンジンオイルの交換(費用は史浩持ち)をしたのだった。
「おや、お二人お揃いとは、珍しい」
 奥の方からやってきた整備士に、啓介は、いっと顔を歪めて、ビクッとして後退った。
「はは、松本さんはオレ達が一緒にいるのを見るのは初めてか」
「別々にはよぅくお会いしてましたけどね。今日はどうされたんです?」
「啓介がクルマの免許を取ったから、クルマを、な」
 和やかに話し出した涼介達を見て、啓介は苦虫を噛み潰したような顔で、松本と呼ばれた整備士を見遣った。
『何でオレ今まで気付かなかったんだ…? コイツが着てるツナギ、ココのヤツじゃん…ココの整備士だったのか…どうりでアニキと顔馴染みの訳だよ;』
 何となく蚊帳の外になっている啓介に、松本はやんわりと微笑んだ。
「そう言えば、啓介さんに名乗っていませんでしたね。松本修一と言います。この工場で整備士としてお世話になっています。涼介さんのFCのメンテナンスの担当をさせて頂いています。以後お見知りおきを」
 以後も何も以前から見知ってる、と啓介は何だか居心地が悪い。
「まぁこれからは啓介のクルマも世話になるから、史浩、誰かいいメカニックがいたら、宜しく頼む」
「そうだな、松本さんは誰がいいと思う?」
「出来れば若い人が良いんだけど」
 まだ誰にも話していない壮大な計画を脳内で巡らせる涼介は、付け加えた。
「そうですね、今年入った宮口はなかなか良いウデしてますよ。今日は生憎、休みですが」
「じゃあ、FDが納車された時にでも、紹介してくれ」
 そう言って、涼介は啓介と共に、自宅に戻った。




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