ようやく眠りの縁から覚醒してきた。
 今何時だろう。
 不規則な生活をしているが、朝起きる時間だけは崩さないよう、心掛けている。
 毎日決まった時間に起床することで、多忙な医大生と走り屋の2つの顔を保ち、健康管理していた。
 手探りで、目覚まし時計を探す。
(ん…あれ…?)
 手を伸ばした何処にも、目覚まし時計が触れない。
 うっすらと、まだ眠い目を開く。
(あれ…オレの部屋じゃ…ない…?)
 頭上から射し込む陽光。
(啓介の部屋か…? 何で…)
 泣き疲れて眠った啓介は、涼介の部屋のベッドで寝たから、そのまま移動したりはしていない筈なのだが。
 虚ろな瞳で、部屋を見渡す。
 何かが変だ。
 間取りは確かに、啓介の部屋なのだが、空気が違う。
 よく見ると、壁紙が違う、カーテンも違う。
 ヤニで黄ばんでる天井も知らぬかのように真っ白だ。
 自分が今横たわっているベッドの隣に、もうひとつベッドがある。
 そして、ベッドとベッドの間に置いてある、学習机。
(何だ…? 子供の頃に戻ったみたいだな…この部屋…オレはまだ夢を見てるのか…?)
 その時、腹部の辺りに、温かいモノが在ることに気付いた。
 寝相の悪い啓介が其処にいるのか、とゆっくりと上体を起こしながら、視線を落とすと。
「?!」
 其処にいたのは、とても小さな、まだ赤ちゃんとも呼べそうな、小さな男のコがすやすやと眠っていた。
「な…?!」
 柔らかな明るい茶色の髪。
 ひよこのように、逆立っていて。
「け…啓、介…?」
 十数年の昔でも、今でもすぐに、鮮明に思い出される。
 これは、啓介だ。
 多分、3歳くらいだろう。
「何…で…啓介が…こんな…」
 寝惚けていた脳味噌も、スッカリ醒めた。
 そして改めて、今いる部屋を見渡す。
 広い部屋に置かれた、2つのダブルベッド。
 その間に置かれた、子供用学習机。
 部屋の半分は綺麗に整頓されているが、もう片方は、オモチャが散乱している。
 涼介が小学校6年生までは、兄弟は一緒の部屋だった。
 中学校に上がると同時に個室が与えられたが、それまでは、涼介もこの部屋で過ごしていたのだ。
 呆然としていると、小さな啓介がぽてんと寝返りを打って、ハッと我に返る。
 そ、とその小さな身体に触れる。
 温かくて、柔らかくて。
(確かに…大きくなっても寝顔はこの頃から変わらないな…)
 じゃなくて。
(一体これは…どういう事だ…? オレはまだ夢を見ているのか…?)
 服のままで寝ていた、そのズボンのポケットに手が触れる。
 どうやら携帯をポケットに突っ込んだまま、寝ていたらしい。
 携帯を取り出して、画面を確認すると、息を呑んだ。
(18年前の日付…?! いやでもこの年代の頃はまだ携帯電話なんて一般には普及されてなかったのに…バグか…?)
 そんな理屈はともかく、圏外となっているので、その方が疑問だった。
 峠で、頂上にいると電波が弱いことはあるが、自宅にいて携帯の電波を気にしたことはない。
 お約束のように、頬を抓ってみる。
 痛い。
(ってことは…夢じゃ…ない…?)
 そ、とベッドから降りて、散乱した懐かしいオモチャを踏まないように、窓際に向かう。
 いかにもな子供向けの柄のカーテンを開けて、眩しさに目を細めながら、外を見る。
 其処に広がる景色は、現代のものではなかった。
 そう、携帯の画面に表示された18年前の、懐かしい景色だ。
 彼処は空き地だし、向かいの家も改築前、あの向こうにはまだ高いマンションも建っていない。
「何がどうなっている…?」
 訳が分からず、ふと声を漏らす。
 その声に反応したのか、ベッドの上の小さな啓介が、もぞもぞと動き、涼介はピクッと振り返った。
「ふに…あれぇー? にーちゃあー?」
 目を覚ました小さな啓介が、ぴょこんと起き上がって、キョロキョロと兄の姿を捜している。
 間もなくバチッと目が合い、涼介はドクンドクンと鼓動が逸った。
「お…おはよう、啓介」
 思わず声が上擦る。
 小さな啓介はきょとんとして、じぃっと涼介を凝視した。
 逸る鼓動と動揺を悟られないように、微笑んでみせる。
「…にーちゃ?」
「あ、あぁ…お兄ちゃん、だ、よ…」
 つぶらな瞳に見つめられ、思わず返答してしまったのだが。
「にーちゃ、おっきー!」
 にぱっと笑う、純真無垢な笑顔。
 手を広げて抱っこをねだったので、涼介はベッドに戻り、やや戸惑い気味に、小さな啓介を抱き上げる。
 軽いけれど、ずしりと感じる重み、その温もり。
 小さな啓介は嬉しそうに、ぎゅうっと抱きついてきた。
 この温かい体温、柔らかい感触は、夢とは思えない。
「ちゅうー」
 そう言って、小さな啓介は涼介の唇に自分の口をくっつける。
「こ…こら…っ」
 虚を突かれて、思わず小さな啓介を離そうとすると、ぷぅっと口を尖らせて膨れた。
「おぁよーのちゅうー!」
 そう言えば、子供の頃はいつも、朝起きた時に『おはようのチュウ』と言って、日常的にキスをしていたんだった、と思い出す。
 朝なかなか起きない啓介に、キスをして起こすのが日課だった。
 あの頃はその行為に何ら疑問を抱いてはいなかったが、大人になった今改めて考えると、一般的に考えたら異常だったのだろうか、と思う。
 尤も、大きくなった今は別の意味でキスをし合っているのだから(それ以上のこともしているが取り敢えず置いておいて)、何が異常で何が普通なのか、判断が曖昧だった。
 小さな啓介が、アヒル口で涼介からのチュウを待っていたので、戸惑いながらも、ちゅっとその小さな口にキスをした。
 それで満足したのか、小さな啓介はニコーッと満面の笑顔だ。
「にーちゃ、おぁよー!」
 その無垢な笑顔に癒されてほっこりしている場合ではないのだが、さてこの状況、どうしたものか。
 小さな啓介にむぎゅーっと抱きつかれて、抱っこしたままポンポンと頭を撫でていると、ついこの間、病棟実習で小児科を経験したばかりだったことを思い出す。
(一体これは…夢なのか、現実なのか…?)
 その時、トントン、とドアがノックされ、ビクッとして鼓動が跳ねた。
 カチャリとドアが開き、顔を覗かせてきたのは、随分若い、母親だった。





「啓介? 何処だ?」
 ウッカリ小さな啓介から目を離していた。
 どれくらい時間が経ったか分からないが、慌てて辺りを見渡す。
 何処からか、小さな啓介の泣き声が聞こえてくる。
 泣き声を辿っていくと、小さな啓介はトイレの前でえぐえぐと泣いていた。
 ツンと匂ってきた匂いで気付く。
「あぁ、漏らしちゃったか…」
 どうやら、便意を催したことで、自分でトイレに向かったが、すぐに脱げなくて、間に合わなかった、ということなのだろう。
「泣かなくていいよ、啓介。うんちをしたくなって、自分からトイレに行ったんだろ? 自分でトイレでうんちしようとしたんだろ? 啓介は今まで出来なかったことが出来てるんだ。今回は漏らしちゃったけど、次はちゃんと出来るから。お兄ちゃんが気付いてあげられなくてごめんな」
 宥めるように、優しく頭を撫でる。
「けーちゃ、ひとりでといれ、できなかった…にーちゃみたいに、ひとりで…」
 ぐしゅぐしゅと泣きじゃくる小さな啓介に、涼介はポンポンと頭を撫でながら、優しく微笑みかけた。
「少しずつ、出来るようになっていけばいいんだから。焦らなくていい、今日出来なくても明日は出来るようになっているから。な? 泣かないで。着替えよう」
 涼介は子供部屋から小さな啓介の替えのパンツを持ってきて、脱がせて汚れたお尻と局部を拭き、汚れたパンツはダストボックスに投げ込む。
「けーちゃ、じぶんで!」
 兄に綺麗にしてもらうと、小さな啓介は兄の手から、パンツを奪い取る。
「―――…」
 空いてしまった手に、淋しさを感じるのは何故だろう。
 いつでも、にぃに、にーちゃ、おにーちゃ、おにーちゃん、にーちゃん、アニキ、アニキと兄ばかりを追い掛けて、兄だけを頼り、兄にベッタリだったのに、離れて行かれてしまうような、この淋しさ。
 弟が自立出来るようにと促し手伝いながら、イザ自立されて自分の元から離れられると淋しく感じるなんて、弟離れが出来ないのは自分だろう。
 ずっと傍にいて欲しい、自分の手元に置いて、育てていきたい。
 啓介の夢を叶える為には、いつか離ればなれになる時が来る。
 その時オレは、正気でいられるか―――?
 虚ろに手を見つめていると、小さな啓介が一生懸命パンツを穿こうと頑張っているのに気付き、しまったちゃんと見てやるんだった、と手助けの口を開こうとしたら、覚束無いものの、一人で穿けていたのを見て、涼介は驚く。
 今日だけで何度も教えて実践しているし、学習能力が高いのだということが如実に分かる。
 今でこそ啓介が学習能力が高いこと、言葉より身体で覚えるタイプだということは分かっているが、3歳の小さい頃には、まだ気付いてはいなかった。
 小さくとも啓介は啓介なのだと、思い知る。
 自分勝手に淋しさを感じている場合じゃない、弟の成長を喜ばなければ。
「凄いな、啓介。パンツとズボンなら、もう自分で穿けるじゃないか」
「けーちゃ、にーちゃみたいになりたいの。にーちゃみたいにじぶんでできるこになりたい」
 半ズボンも一人で穿けて、小さな啓介はキラキラした笑顔で、兄を見上げていた。
「オレみたいに…?」
『オレはアニキみてーになりてーんだ。いつでもオレの目標は、アニキだから』
 少年から青年へと変わっていく弟の、向日葵のような笑顔が思い出される。
 こんなに小さい頃から、啓介はオレを目標としてくれていた―――果たしてオレは、それに恥じることのない、理想の兄だっただろうか―――?
 淋しさなんて感じている場合じゃない、これからも理想の兄でいられるよう、精進しなければ。






 玄関のチャイムはいつまでも鳴っていたので、しつこい勧誘だな、と思いながら洗面所に行き、急ぎ顔を洗って髪を梳かし、階下に降りる。
 LDKでインターホンを取ると、モニタに映っていたのは、緒美だった。
「はい」
『アレ? その声、涼兄?』
 緒美の反応を怪訝に思いながらも、解錠ボタンを押した。
 玄関に出迎えに行くと、緒美は目を丸くしている。
「涼兄、おっきいね」
「は? まぁいい、上がれよ」
「うん。お邪魔しま〜す」
 まだ過去の世界にいた時の感覚から抜けきらない涼介は、経年を感じさせる屋敷内に戸惑いつつ、LDKに向かった。
「今日はどうしたんだ? 緒美。家庭教師の日だったか?」
 一体今日は何日なんだ、と自分が過去に行っている間にどれくらい日数が経っているのか、過去にいた日数と同じか、それとも違うのか、全く分からず、心許ない。
「え? う〜ん、啓兄に英語見てもらおうと思って来たけど、涼兄がいるなら他の教科も見てもらいたいな」
 この緒美の言い方では、やはり自分がいない時間がこの時代にあったのだと、確信する。
「お洗濯もしちゃうね! 溜まってるでしょ?」
「え…さぁ、どうかな…」
 緒美はリビングのソファに鞄を置くと、パタパタと出て行った。
 それを見送った涼介は、グルリLDKを見渡す。
 ほんの数日振りの筈なのに、随分と久し振りな感覚だ。
 ゆっくりと確かめるように、室内を見て回る。
(何だろう…随分日にちが経っているような…そんな感じがするな…今日は何日だ…?)
 テレビは殆ど観ないし世間の情報はインターネットで事足りるからと、兄弟2人しかいない今は新聞を取っていないので、日にちを確認出来ない。
 携帯が今何処にあるか把握していないし、緒美に訊けばいいか。
(あの感じだと、緒美はオレがいない間にこの家に来ているよな…啓介は部屋で寝てるのか…?)
 啓介を起こしに行くか、と思ったその時。
 リビングの奥、テレビの前のテーブルに何かが置かれているのが目の端に映った。
「何だ…?」
 歩み寄ると、ハンディビデオカメラと、そのビデオテープのようだった。
 出してあるということは、何か撮影したんだろうか、とテーブルの傍で覗き込む。
「何だ…メモ…?」
 ビデオテープが重しになって、何かが書かれた紙があるのに気付き、手に取ると、ドクンと鼓動が跳ねた。
 子供の書いた字―――何となく、懐かしさを覚える文字の形状。
《23さいのぼくへ。みてください。5さいのりょうすけより》
 ずっと考えていた―――過去にいる間、5歳の自分は何処にいるのか、と。
「此処に…いたのか…?」