「今はオフシーズンですが、ご帰国はされないんですか?」
メインの話が終わり、雑誌掲載の為の写真を何枚か撮った後、ロビーを飾るクリスマスモニュメントに目を遣って、菱沼は啓介を伺う。
すると啓介は眉尻を下げ、苦笑した。
「ん〜…日本を発つ時、心に決めたことがあるんです。生まれ育った国から遠く離れて海外でレース活動をすると決めたからには、自分が納得するだけの成績を残せるまで、日本には帰らないって。家族にも日本のスポンサーの方にも、そう言ってあります」
「でも、このデビューシーズンは途中参戦だったのに、いい成績だったのでは? すぐに上位カテゴリにステップアップできるんじゃないですか」
「いやいや、まだまだダメですよ。オレには目標があるんです。それを叶えられるまで、帰国する気はありません」
「目標とは? 教えてくださいよ。まさかF1まで上り詰めるまでとかですか?」
「ははっ、違いますよ。ヒミツです。オレだけの目標ですから。まぁ、運転免許の更新が来たら、目標達成してなくても、帰国することになるんですけどね」
再来年の春に、と照れくさそうに、啓介は笑う。
「今日は有り難う御座いました。お蔭でいい記事が書けそうです」
「オレの記事を読んでくれた人達が、少しでも興味を持ってくれて下位カテゴリにも目を向けてくれたら嬉しいですね」
「日本じゃフォーミュラよりGTの方が注目度が高いですからねぇ…あ、そうだ」
帰り支度をしていた菱沼は、思い出したように、手を止めた。
「今回の取材とは別件で、高橋さんにお話ししたいことがあるのですが…」
「? 何です?」
「日本の知人に頼まれたことなのですが、まだお時間、宜しいですか?」
「えぇ、今日はこの後はトレーニングジムに行くだけですから、大丈夫ですよ」
「高橋さん、GTを走る気はありませんか?」
「はぁ?」
何を言われたのか、啓介は思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「秋元啓武という古くからの知り合いなんですが、先頃、FDでGT参戦するチームを起ち上げたんです。それでウデのいいドライバーを捜してるらしく、テストを繰り返しているようなんですが、なかなか秋元氏のお眼鏡に適うドライバーがいないとかで…それで僕の書いた記事で、高橋さんがロータリー乗りだと知って、遡って、業界でも有名な伝説のプロジェクトDのヒルクライムエースが高橋さんその人だと知り、話を通してくれないかと言われたんです。まずは話を聞いてもらうことは出来ませんか?」
「GTをって…確かにオレは最初はGTに進むつもりでいましたけど、もうフォーミュラの方向に決めて、今こうしているんです。まだ駆け出しの新人で、まだまだ慣れたとも言えないのに、フォーミュラをやめてGTに、という気はありませんよ」
「いえ、辞めてという意味ではなく、フォーミュラを走りながら、その合間にGTでも、ということです。フォーミュラとGTを掛け持ちしているレーサーは、珍しくないでしょう」
「そりゃ知ってますけど、そういうのはF1まで上り詰めたような、トップドライバーが殆どでしょう。オレみたいなぺーぺーの新人が掛け持ちなんて、無理ですよ。叩かれるのがオチだ。それにオレは、2つのことを同時に両立できるような器用さはないです。オレに目を掛けてくれたのは光栄ですけど、今はフォーミュラのことしか考えられません。すみませんって、謝っといてください」
「そうですか…残念です。ロータリーと言えば高橋啓介、って業界でも有名ですし、高橋さんがFDでGTを走ったら、喜ぶ人も多いんじゃないかと思っていたんですが…」
菱沼の言葉に、啓介は僅かに目を見開く。
「…別にロータリー乗りって言うんなら、有名レーサーにも結構いるんじゃないですか? あ、有名処は引っ張ってこれないから、駆け出しの新人レーサーのオレを、ってことですか?」
目を伏せ含んだように呟く、その意味に菱沼は気付かない。
「秋元さんは高橋さんの走りを見て、惚れ込んだんですよ。僕と同じように、高橋さんの走りは見る人を惹き付ける。それに高橋さんは秋元さんと同じ、名前に啓≠フ字が入ってるから、親近感が持てるって」
「何すかその理由…;」
最後の言葉に、ガクッと肩をずり落とす。
「まぁこっちでも、孫と同じ名前だから個人スポンサーになってもらえた、とかって話は聞くから、そういう繋がり≠ナ縁が出来るのは、オレ達には有り難いですけど…でもFDと言えば雨宮さんでしょ、雨宮さんはGTからは撤退した筈じゃあ」
「いえ、雨宮さんの所とは無関係なんですよ。まるっきり無関係でもないんですけど、秋元さんはマツダスピードの元スタッフで、かつてル・マン24時間レースにメカニックとして参戦していた経歴の持ち主なんです」
「へー、じゃあ何でル・マンじゃなくてGTなんですか?」
「それはまぁ、所謂資金繰りの関係らしいんですが…でも志半ばで撤退してしまったル・マンへの夢はまだ捨てられなくて、GTで高橋さんに走ってもらえれば、集客も見込めてスポンサーも増えるんじゃ、と…ロータリー人気は未だに根強いですし、そこへ生粋のロータリー乗りの高橋さんがドライバーとして参加すれば、マツダもレース活動に復帰するかも知れない、そうすれば資金面はクリアできて、またマツダとRX-7の名を世界に轟かせられる、という願望というか野望? もあるようですが…マツダは近い将来RX-7復活の噂もありますしね」
「…すっげー心揺さぶられるお話ですけど、フォーミュラの世界に入ったばっかのオレには、GTと両立とか、無理ですよ。オレの性格的に、やるならトコトンまでのめり込むから、不器用なオレには、どっちつかずになりそうで、どっちもダメになりそうで、嫌なんです。将来的には、そういうことも出来るようになっていられたら、とは思いますけど、今はGTは走れません。すみません」
「…分かりました、そう秋元さんにも伝えます。チーム起ち上げをもっと早くしていたら良かった、って言われそうですよ」
「はは、そうですね。今のチームneuer Keimのオーナー・クライバーさんに声を掛けてもらう前だったら、二つ返事でOKしてたかも知れないです。ロータリーには思い入れが強いですから…」
「一ファンとして、そう遠くない将来、FDでサーキットを走る高橋さんを観れることを期待していますよ。今日は長い時間、有り難う御座いました。本出来たら送りますね」
菱沼が帰っていった後、啓介は窓の向こうの藍の空を見上げた。
「ロータリーと言えば高橋啓介、か―――…」
かつてロータリーの高橋兄弟≠ニ呼ばれ、兄とセットで有名だったことが、遠い昔のように思えた。
寧ろロータリーと言えば有名だったのは兄・涼介の方だった。それがいつしか、弟の自分の方が有名だと言われて、兄の存在が忘れられていったようで、どうしようもない寂寥感に見舞われる。
自己顕示欲は強い方だから、自分が有名になるのは嬉しくない訳ではない。
だが、啓介にとって一番重きを置く存在は、兄なのである。
自分をこの世界に導いてくれたのは、唯一無二の大事なひと、兄・涼介だ。
夢も目標も見付けられなくて荒れていた十代の終わり、兄に連れられ赤城峠に行き、FCで見せられたダウンヒルは、未だに忘れられない。
兄のお蔭で、クサクサした退屈な毎日から抜け出し、モノクロだった世界が色付いて見えるようになった。
クルマにのめり込み、毎晩峠に通い、充実した毎日。
目標のようなものも出来て、兄に教えを請いながら、関東各地に遠征を繰り返した伝説のチーム・プロジェクトDでも全勝の金字塔を打ち立て、自信も生まれた。
兄がいたからこそ、今の自分がある。
初めて表彰台に上がった時から、インタビューでも常にそれを言い続けてきて、それなりに知られている筈だが、プロジェクトDでも裏方だった為、他に追随を許さない程速かった赤城の白い彗星時代さえも忘れられているようで、面白くない。
海外の人間ならばしょうがないと分かっている。
だが日本人に、業界の人間に忘れられていると思うと、声高に言ってやりたくなるのだった。
いつか国際電話で話した時、兄に『そんなことは気にしなくていい』『言う必要はない』と言われたが、啓介にとって、兄・涼介の存在は絶対なのだ。
忘れられてはいけないひとなのに―――。
まだ人生を達観できない若い啓介には、「自分さえ覚えていればそれでいい」などとは、思えないのだった。
すっかり暮れた、冬の夜空。ドイツの冬は、16時には日が暮れてしまう。
「日本は夜中過ぎか…」
8時間の時差もすぐに出る程、ドイツと日本、遠く離れた生活は長くなった。
2歳違いの兄とは同時に大学を卒業し、兄は今、研修医として自分の時間すらとれない程に多忙な毎日を送っていることだろう。
生まれた時からずっと、一つ屋根の下で一緒に暮らしてきて、こんなに長く離れ、顔を見ないのは初めてだ。
時差もあるし互いに忙しい身の為、電話で話す回数もそう多くない。
「逢いてぇなぁ…アニキ…」
ポケットからスマホを取り出すと、SNSツールを開き、兄に宛てて、『だいすきだよ』とだけ打ち込んでおいた。
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