「今はオフシーズンですが、ご帰国はされないんですか?」
 メインの話が終わり、雑誌掲載の為の写真を何枚か撮った後、ロビーを飾るクリスマスモニュメントに目を遣って、菱沼は啓介を伺う。
 すると啓介は眉尻を下げ、苦笑した。
「ん〜…日本を発つ時、心に決めたことがあるんです。生まれ育った国から遠く離れて海外でレース活動をすると決めたからには、自分が納得するだけの成績を残せるまで、日本には帰らないって。家族にも日本のスポンサーの方にも、そう言ってあります」
「でも、このデビューシーズンは途中参戦だったのに、いい成績だったのでは? すぐに上位カテゴリにステップアップできるんじゃないですか」
「いやいや、まだまだダメですよ。オレには目標があるんです。それを叶えられるまで、帰国する気はありません」
「目標とは? 教えてくださいよ。まさかF1まで上り詰めるまでとかですか?」
「ははっ、違いますよ。ヒミツです。オレだけの目標ですから。まぁ、運転免許の更新が来たら、目標達成してなくても、帰国することになるんですけどね」
 再来年の春に、と照れくさそうに、啓介は笑う。


「今日は有り難う御座いました。お蔭でいい記事が書けそうです」
「オレの記事を読んでくれた人達が、少しでも興味を持ってくれて下位カテゴリにも目を向けてくれたら嬉しいですね」
「日本じゃフォーミュラよりGTの方が注目度が高いですからねぇ…あ、そうだ」
 帰り支度をしていた菱沼は、思い出したように、手を止めた。
「今回の取材とは別件で、高橋さんにお話ししたいことがあるのですが…」
「? 何です?」
「日本の知人に頼まれたことなのですが、まだお時間、宜しいですか?」
「えぇ、今日はこの後はトレーニングジムに行くだけですから、大丈夫ですよ」
「高橋さん、GTを走る気はありませんか?」
「はぁ?」
 何を言われたのか、啓介は思わずあんぐりと口を開けてしまった。
「秋元啓武という古くからの知り合いなんですが、先頃、FDでGT参戦するチームを起ち上げたんです。それでウデのいいドライバーを捜してるらしく、テストを繰り返しているようなんですが、なかなか秋元氏のお眼鏡に適うドライバーがいないとかで…それで僕の書いた記事で、高橋さんがロータリー乗りだと知って、遡って、業界でも有名な伝説のプロジェクトDのヒルクライムエースが高橋さんその人だと知り、話を通してくれないかと言われたんです。まずは話を聞いてもらうことは出来ませんか?」
「GTをって…確かにオレは最初はGTに進むつもりでいましたけど、もうフォーミュラの方向に決めて、今こうしているんです。まだ駆け出しの新人で、まだまだ慣れたとも言えないのに、フォーミュラをやめてGTに、という気はありませんよ」
「いえ、辞めてという意味ではなく、フォーミュラを走りながら、その合間にGTでも、ということです。フォーミュラとGTを掛け持ちしているレーサーは、珍しくないでしょう」
「そりゃ知ってますけど、そういうのはF1まで上り詰めたような、トップドライバーが殆どでしょう。オレみたいなぺーぺーの新人が掛け持ちなんて、無理ですよ。叩かれるのがオチだ。それにオレは、2つのことを同時に両立できるような器用さはないです。オレに目を掛けてくれたのは光栄ですけど、今はフォーミュラのことしか考えられません。すみませんって、謝っといてください」
「そうですか…残念です。ロータリーと言えば高橋啓介、って業界でも有名ですし、高橋さんがFDでGTを走ったら、喜ぶ人も多いんじゃないかと思っていたんですが…」
 菱沼の言葉に、啓介は僅かに目を見開く。
「…別にロータリー乗りって言うんなら、有名レーサーにも結構いるんじゃないですか? あ、有名処は引っ張ってこれないから、駆け出しの新人レーサーのオレを、ってことですか?」
 目を伏せ含んだように呟く、その意味に菱沼は気付かない。
「秋元さんは高橋さんの走りを見て、惚れ込んだんですよ。僕と同じように、高橋さんの走りは見る人を惹き付ける。それに高橋さんは秋元さんと同じ、名前に啓≠フ字が入ってるから、親近感が持てるって」
「何すかその理由…;」
 最後の言葉に、ガクッと肩をずり落とす。
「まぁこっちでも、孫と同じ名前だから個人スポンサーになってもらえた、とかって話は聞くから、そういう繋がり≠ナ縁が出来るのは、オレ達には有り難いですけど…でもFDと言えば雨宮さんでしょ、雨宮さんはGTからは撤退した筈じゃあ」
「いえ、雨宮さんの所とは無関係なんですよ。まるっきり無関係でもないんですけど、秋元さんはマツダスピードの元スタッフで、かつてル・マン24時間レースにメカニックとして参戦していた経歴の持ち主なんです」
「へー、じゃあ何でル・マンじゃなくてGTなんですか?」
「それはまぁ、所謂資金繰りの関係らしいんですが…でも志半ばで撤退してしまったル・マンへの夢はまだ捨てられなくて、GTで高橋さんに走ってもらえれば、集客も見込めてスポンサーも増えるんじゃ、と…ロータリー人気は未だに根強いですし、そこへ生粋のロータリー乗りの高橋さんがドライバーとして参加すれば、マツダもレース活動に復帰するかも知れない、そうすれば資金面はクリアできて、またマツダとRX-7の名を世界に轟かせられる、という願望というか野望? もあるようですが…マツダは近い将来RX-7復活の噂もありますしね」
「…すっげー心揺さぶられるお話ですけど、フォーミュラの世界に入ったばっかのオレには、GTと両立とか、無理ですよ。オレの性格的に、やるならトコトンまでのめり込むから、不器用なオレには、どっちつかずになりそうで、どっちもダメになりそうで、嫌なんです。将来的には、そういうことも出来るようになっていられたら、とは思いますけど、今はGTは走れません。すみません」
「…分かりました、そう秋元さんにも伝えます。チーム起ち上げをもっと早くしていたら良かった、って言われそうですよ」
「はは、そうですね。今のチームneuer Keimのオーナー・クライバーさんに声を掛けてもらう前だったら、二つ返事でOKしてたかも知れないです。ロータリーには思い入れが強いですから…」
「一ファンとして、そう遠くない将来、FDでサーキットを走る高橋さんを観れることを期待していますよ。今日は長い時間、有り難う御座いました。本出来たら送りますね」


 菱沼が帰っていった後、啓介は窓の向こうの藍の空を見上げた。
「ロータリーと言えば高橋啓介、か―――…」
 かつてロータリーの高橋兄弟≠ニ呼ばれ、兄とセットで有名だったことが、遠い昔のように思えた。
 寧ろロータリーと言えば有名だったのは兄・涼介の方だった。それがいつしか、弟の自分の方が有名だと言われて、兄の存在が忘れられていったようで、どうしようもない寂寥感に見舞われる。
 自己顕示欲は強い方だから、自分が有名になるのは嬉しくない訳ではない。
 だが、啓介にとって一番重きを置く存在は、兄なのである。
 自分をこの世界に導いてくれたのは、唯一無二の大事なひと、兄・涼介だ。
 夢も目標も見付けられなくて荒れていた十代の終わり、兄に連れられ赤城峠に行き、FCで見せられたダウンヒルは、未だに忘れられない。
 兄のお蔭で、クサクサした退屈な毎日から抜け出し、モノクロだった世界が色付いて見えるようになった。
 クルマにのめり込み、毎晩峠に通い、充実した毎日。
 目標のようなものも出来て、兄に教えを請いながら、関東各地に遠征を繰り返した伝説のチーム・プロジェクトDでも全勝の金字塔を打ち立て、自信も生まれた。
 兄がいたからこそ、今の自分がある。
 初めて表彰台に上がった時から、インタビューでも常にそれを言い続けてきて、それなりに知られている筈だが、プロジェクトDでも裏方だった為、他に追随を許さない程速かった赤城の白い彗星時代さえも忘れられているようで、面白くない。
 海外の人間ならばしょうがないと分かっている。
 だが日本人に、業界の人間に忘れられていると思うと、声高に言ってやりたくなるのだった。
 いつか国際電話で話した時、兄に『そんなことは気にしなくていい』『言う必要はない』と言われたが、啓介にとって、兄・涼介の存在は絶対なのだ。
 忘れられてはいけないひとなのに―――。
 まだ人生を達観できない若い啓介には、「自分さえ覚えていればそれでいい」などとは、思えないのだった。
 すっかり暮れた、冬の夜空。ドイツの冬は、16時には日が暮れてしまう。
 「日本は夜中過ぎか…」
 8時間の時差もすぐに出る程、ドイツと日本、遠く離れた生活は長くなった。
 2歳違いの兄とは同時に大学を卒業し、兄は今、研修医として自分の時間すらとれない程に多忙な毎日を送っていることだろう。
 生まれた時からずっと、一つ屋根の下で一緒に暮らしてきて、こんなに長く離れ、顔を見ないのは初めてだ。
 時差もあるし互いに忙しい身の為、電話で話す回数もそう多くない。
「逢いてぇなぁ…アニキ…」
 ポケットからスマホを取り出すと、SNSツールを開き、兄に宛てて、『だいすきだよ』とだけ打ち込んでおいた。




「日本はあったけぇなぁ…」
 啓介が日本を離れてから、3年近くの月日が流れた。
 今シーズンの開幕前に運転免許の更新手続きで一時帰国はしたが、国内のスポンサーに挨拶したのみで、家族にも友人にも会わなかった。
 前回は慌ただしい一時帰国だった為、今回は久し振りに長期滞在の予定の帰国だ。
 懐かしい日本の空気と、当たり前に聞こえる日本語が、帰ってきたことを実感する。
 シーズンが終わり、帰国してまずは挨拶回りと、祝賀パーティーの出席、各メディアの取材など、スケジュールが詰め込まれていて、群馬にはすぐには帰れそうにない。
 昨シーズンはステップアップからの途中参戦だったが、ユーロF3に今シーズンはフル参戦し、シリーズランキングは惜しくも2位の成績に終わったものの、初フル参戦での成績としては上々だろう。
 だがその成績に納得しなかった啓介は、各国のF3の成績上位者が集うマカオグランプリにて、不可能と思われた逆転追い抜きで、見事優勝を果たした。
 見るモノ全てを惹き付けるその走りは、所属チーム名BLITZに相応しい、まさに稲妻のようで、モータースポーツファンを魅了した。
 シリーズチャンピオンは逃したが、マカオで優勝したことで、この辺りで一度けじめを、と帰国を決意したのである。
 帰国後すぐから、スケジュールがびっしりで目まぐるしく、涼介とは電話で一度話しただけだったが、次々に舞い込む取材やら何やらに、いつになっても地元に帰れないので、必要最低限をこなすと、一旦群馬に帰り、必要に応じて群馬と東京を往復する、という合意に至った。


 ドイツから同伴してきてくれた代理人のマエサキと共に新幹線で高崎に向かい、マエサキは遠い親戚のいる前橋へと在来線に乗り、啓介とは高崎駅で別れた。
 前回の帰国では景色もゆっくり見られなかったが、駅内のイーサイトをぶらり眺めてみる。
「これか、高崎駅のぐんまちゃんのショップって…」
 銀座にあるショップはちらっと見ていたのだが、その時に高崎駅にも新しく群馬県のゆるキャラ・ぐんまちゃんのグッズを取り扱う専門ショップが出来ていることを知ったのだった。
 家族や友人への土産はドイツで買ってきたから此処で今買う必要はないが、ドイツに戻る時の土産は何にしようか、と物色しつつ、殺風景なドイツのアパートにぐんまちゃんのぬいぐるみでも置こうかな、などと思ってしまった25歳成人男性は、もし見られたら引かれるかな、とやはりやめることにして、西口に向かう。
 上州名物からっ風に、ドイツとは違う、懐かしい空気に風の強ささえも心地好い。
 時は12月、東京も煌びやかで素晴らしかったが、高崎のクリスマスイルミネーションは懐かしさで、昼間で点灯していなくとも、見ていて癒された。
 駅から自宅までは歩けない距離ではないのだが、荷物も大きく多いし、帰国後の慌ただしさに流石の啓介も疲れがあって、タクシーでワンメーター程度の自宅へと向かう。
 家が近付く度に、嬉しさと緊張で鼓動が逸っていく。
 ようやく、アニキに逢える―――。

 久し振りの我が家。
 タクシーから降りて全景を眺めたが、何やら様子が変だ。
 屋敷を囲う柵が全体的に可愛らしくクリスマスの飾り付けがされているのは、やはりクリスマスが近いからそうしたのだろうか、欧米のカトリックの家庭なら珍しくないが、日本だと観光スポットのようになって目立つんじゃないか、と思う。
 施錠された門を暗証番号を押して開けると、洋風庭園として近所でも有名で地元ローカルテレビでも紹介されたことのある広い庭が、遊具が沢山の、保育園の園庭のようになっている。
 砂場に滑り台、ブランコにシーソーにジャングルジム、一体いつからこの家は保育園になったのだ。
 いや遊戯施設か?
 ガレージを覗きに行くと、FCの隣にFDがあり、啓介が海外にいる間エンジンを下ろして史浩の実家の工場に置いていたのが、エンジンを積み直していつでも乗れるようにしてあるようだった。
 だが、不思議なのは、両親は仕事中だから親のベンツはガレージにないが、代わりに真っ赤なRX-8がFCの横に並んでおり、啓介は不思議に思う。
「何だ? このエイト…誰が乗ってんだ…? オフクロはアウディだし、莱子サンか…? いや莱子サンはスイスポだったよな…買い換えにゃまだ早いよな…」
 久し振りで浦島太郎な気分だな、と多くの疑問を抱えながら、玄関に向かった。
 が、家の鍵が見当たらない。
「あれ? 鍵何処だっけ?」
 ドイツを発つ前には確認したのだが、東京で慌ただしく過ごしている間に、失くしてしまったのだろうか。
 身体をあちこちまさぐりながら、取り敢えずチャイムを押した。
 今日は涼介は当直明けで休みだと言っていたから、兄が開けてくれる筈。
 が、一向に玄関が開くどころか、玄関先まで誰かが来た気配さえもない。
「アニキ、寝てんのかな…っと、鍵あった!」
 ダウンジャケットの内ポケットに鍵を発見し、差し込んでガチャリ開ける。
「ただいま〜…?」
 兄に出迎えられて熱い抱擁そして濃厚なキスあわよくばその先も、そこまで想像して期待していたのに、誰もやってこず、無人のままだ。
 よいしょ、と大荷物を玄関内の三和土に移動させながら気配を探るが、大好きな兄の姿は何処にも見えない。
「っかしーなー…FCあんだから、アニキいるよな…?」
 やっぱ寝てるんかな、と折角の久し振りの感動の再会に至れず残念に思っていると、何やら視線を感じた気がした。
 柱の陰から、此方の様子を伺っている小さな影が二つ。
「いっ?!」
 よちよち歩きの赤ん坊のような、小さな幼児が二人、玄関で立ち尽くしている来客≠遠巻きにじっと見ている。
「な…何だ? このちびっこいの…」
 よく見ると、啓介にそっくりな小さな男児と、涼介にそっくりな小さな女児だ。
「な、なぁ…」
 戸惑いがちに啓介が声を掛けると、子供達はビクッとして、柱の影にぴゅっと隠れた。
 だが暫くすると、また少しだけ顔を覗かせ、啓介を伺ってくる。
 人見知りと好奇心が混ざったような、この小さな子供達は一体何なのか。
 よく見ると、屋内もだいぶ様変わりしており、彼方此方に可愛らしい飾りがあったり、奥の階段に低い手すりや滑り止めシートが貼られてあるのが見えたり、玄関周りも、所謂上の年齢ではなく下の年齢に対するバリアフリーが施されてあって、豪奢な屋敷が、やはり保育園を彷彿させた。
「何なんだよ、一体…ウチはいつから保育園始めたんだ…?」
 高橋総合病院の院内にあるにじのこ保育園≠ノ何かあって代替でウチで預かっているんだろうか、と思ったが、だがそれではこの自分と兄にそっくりな子供達は何なのだろう。
「オフクロが産んだ年の離れた弟と妹…な訳ねぇか…オフクロ51だもんな…」
 困惑しながら呟くと、廊下の奥のドアが開く音がした。
「啓介帰ってきたのか。気付かなくてすまない」
 パタパタとスリッパの音。
 そして現れた、美貌の兄の姿。
 麗しくも暖かな空気を纏った存在感に、啓介は声を発するのも忘れ、見惚れてしまった。
「おかえり、啓介。帰ってくるのは夕方だと思っていたから、すぐに出迎えなくてすまなかった」
 低く柔らかな声に、ハッと我に返り、背を正す。
「あっ、あぁ、ただいま、アニキ」
「まぁまー」
「ままぁー」
 柱の影に隠れていた小さな子供達が、とてとてと涼介の元に行き、きゅっとズボンを掴んで見上げる。
「アニキ、その子供、何…」
「ほら、啓太と涼子も、おかえり≠チて」
 涼介は脚に掴まって隠れている子供達を前に出させて、背を屈めて優しく言った。
「アニキ、その子供何? ウチはいつから保育園始めたんだよ?」
「保育園じゃないよ。オレの子だ」
「はぁっ?!」
 予想だにせぬ言葉を耳にして、啓介は思考が停止した。
 この屋敷の様変わりにぐるぐるしていた疑問が、涼介の言葉である一つの結論に至り、愕然とする。
「あっ、アニキ…ッ、オレというモノがありながら、浮気したのか?! あのエイトは嫁さんの?! アニキいつ結婚したんだよ?!」
 裏切り者ーッ!! と啓介はだぁーっと号泣する。
「オレは浮気も結婚もした覚えはないが? ほら、啓太も涼子も、ちゃんと練習しただろう? パパにおかえりって言ってごらん」
「………パパ?」
 何やら耳慣れぬ単語が、と泣き止んで涼介と小さな子供達を交互に見遣る。
 子供達は人見知りが激しいのか、涼介が促しても、また涼介の後ろに隠れてしまった。
「しょうがないな…啓介、いつまでも玄関先にいるのも何だし、上がれよ」
 涼介はくっついている子供達を優しく剥がしてしっかりと立たせると、啓介の荷物を廊下の奥に移動させた。
「ほら、啓介、外は寒かっただろう。リビングに行こう」
 ほけっとしていると、肩から提げている鞄まで涼介に持たれ、中を促される。
「え、あ、あぁ…」
 何が何やら、頭の上を飛び交うハテナマークを引き連れ、玄関を上がりリビングに向かった。
 約3年振りの感動の再会も去来する想いも何もかも吹っ飛ばされ、子供達を連れて歩く涼介の後を着いていくのみだ。





 研修医は、自分の時間など無いに等しい。
 教授の手伝いをしたり、先輩医師からデータのまとめを頼まれたり、およそ医者のするようなことではない雑用も多く、本来の業務の合間にそれらを行うので、自分が何の科を専門とするかを考える余裕もない程だ。
 だが、涼介は大学入学前から外科医になることを決めていたので、外科の何を専門とするかを考えるのみだった。
「高橋の親父さんは小児科医だろ? 群馬じゃ小児科なら此処群大より高崎に、って言われるくらい有名じゃん。何で小児科医じゃなくて外科医なんだ?」
 消化器外科の漆原教授の研究室を選んだ時、同期の学友にも先輩にもそう言われたことがある。
 高橋総合病院は、院長である父・聡介が小児科の権威であることから、腕のいい小児科医が揃っている。
 自分がいずれ病院を継ぐとはいえ、優秀な小児科医も多いのだから、別に父と同じ専門でなくていいと涼介は常々思っていた。
 外科医になれば小児患者を執刀することもあるだろうし、そうやって別の形から父をサポートすればいいと考え、外科を目指すことに決めたのだ。
 全身科医(ジェネラリスト)とまでは行かなくとも、救急や当直であらゆる症状の患者を診ることになるから、研修医として全ての科を回れるスーパーローテーションは、問題点もあれど、考え方を変えれば良い制度だと、精力的に学び実践する毎日だった。
 今日の天気も気に留めていられない程忙しい日々を送っていたが、ふと窓の向こうの空を見上げる。
 突き抜ける雲一つ無い青い空。
 お互いに新しい環境に馴染むのにいっぱいで、啓介が完全に日本を発ってからは、まだ片手で余る程しか電話はしておらず、時折SNSツールで一言程度の近況報告のやり取りをするのみだ。
 時差はサマータイムで7時間、遠く離れた異国で一人戦う弟を想う。
 物理的な距離は大きく離れてしまっているが、空はドイツまでも続いているように、心はいつでも繋がっている。
(啓介…頑張っているか…? オレも群馬で頑張っているよ…)
 初夏の始まりの太陽の陽射しが、ロクに眠っていない目に染みる。
 だが、太陽のような眩しい笑顔の弟を思い浮かべたら、力んでいた肩の力もいい感じに抜け、今日も頑張ろう、と気分転換になって、自分の戦場に向かった。


 大学時代から、走り屋と医大生の二足のわらじ生活をしていたから、時間の効率的な使い方も覚えていたし、身体も頑丈だから、小さい頃から大きな病気もしたことはなく、親の手を煩わせない子供だったから、自分の身体に過信していたかも知れない。
 最近、何となく体調がおかしい気がする。
 平熱が低すぎて啓介に低温動物呼ばわりされていたのが、このところ(自分にしては)ずっと高い。
 胃が疲れているのか、食欲も落ちてきている。
『過労、かな…』
 食べなければ倒れる、と無理矢理詰め込むと、リバースしてしまう有り様だ。
 医者でありながら薬嫌いの涼介は、サプリなどに頼る気もなかったが、何かしら対応策をとらねばならないな、と考える。
 傍目にはいつも通りの自分を演じながら、だが親しい人間には見抜かれてしまうようだ。
「高橋せんぱ…じゃなかった、センセ、お疲れのようっすね。研修医は満足に休める時間もないでしょ、15分くらいでも横になれたりは出来ないんすか?」
 涼介と同じ年度に保健学科を卒業した、臨床検査技師として働く久木侑斗が心配そうに声を掛けてきた。
 侑斗は高校での啓介の同級生で、啓介とは互いにヤンチャしていた過去をもつ、友人である。
 涼介とは同じT高校出身ではあったが、話をするようになったのは、侑斗が大学に入ってからだった。
 侑斗の父親は此処群大の分子細胞生物学の教授で、だが親子の関係は冷めていて、父親と同じ職場で働くなんて冗談じゃない、と言っていたのが、何故か今此処で働いている。
「はは…休む時間があったら、その分先輩医師から頼まれる雑用が増えるだけだよ」
「無理しないでくださいよ? 倒れられたりなんかしたら、高橋のヤツにオレが怒られちまいますよ。近くにいて何やってんだ、って」
「はは、気を遣わせてすまないな。最近暖かい日が続いたかと思えば急に冷え込んだりして、寒暖の差に身体の対応が追い付いてないのかな…」
「医者の不養生はやめてくださいよ? 先週の健康診断は受けました?」
「いや、受けている時間がなくて…3月の終わりに個人的に受けたから、それから大きく変化はないと思うけど、まぁちょっとした過労だよ。今日は帰れる予定だから、ゆっくり休むさ」

 滅多に帰ってこれない、帰ってきても滞在時間が極端に少ない、高崎の自宅。
 久し振りにしっかり眠って身体を休めたのに、何だかスッキリしない。
 一晩寝ただけでは疲れが取れない程に、疲労が溜まっているようだ。
 ちゃんと一時間半サイクルで眠ってきちっと時間通りに目覚めた筈が、眠気が残っており、気怠い。
 冷水で顔を洗ってシャキッとさせ、今日も戦場に向かう。
 自分の身体に起こっている変化に気付かないままに―――。


* * *


 研修医の数が多いので、各科を回るローテーションは、それぞれ違う。
 涼介は総合診療科での研修が終わって、産婦人科での研修が始まった。
 婦人科にかかる女性、産科にかかる女性、と患者は女性ばかりで、いつも以上に気を遣わなければならない。
 お腹の大きくなってきた奥さんに付き添って旦那も待合室にいたりすることも最近は増えたが、いかんせん大学病院では待ち時間が長いので、女性ばかりの中で男性は、居心地が悪そうにしているのも見掛ける。

 大きなお腹の女性を見ていると、幸せそうな夫婦を見ていると、とある思いが去来する。
 血の繋がった兄弟で、男同士で愛し合う涼介は、自身の跡継ぎを作ることが出来ない。
 幼少時から、大人達の出席するパーティーに連れて行かれると必ず、良家の子女とやらを多数紹介されてきたが、涼介は自分の伴侶は自分で決める、と父に宣言し、故に大きな家の子供にありがちな、生まれた時から決められた婚約者や、数多舞い込む見合いの話などはない。
 だが、大学も卒業して医師になったし、父が研修医を終えると同時に結婚したように、女の気配を全く感じさせない長男に、しびれを切らして見合いの話を持ちかけられるかも知れない。
 今のところそんな話は出てこないが、忙しくて擦れ違いが続いているからかも知れないし、もし次に父か母どちらかと顔を合わせる時に話題にされるかもと思うと、気が重かった。
 高校生の頃までは漠然と、いつか誰かと結婚して、家の為に子孫を成すのだろうと考えていた。
 だが、ずっと秘めてきた弟への想いを自覚し、大学一年の時に啓介を受け入れてからは、それを考えることが出来なくなった。
 啓介以外の人間と結ばれる未来なんて、考えられなくなってしまったのだ。
 そんなことは出来ないと分かっていても、夢見てしまう。
 啓介と結婚して、自分達の血を引いた子供を育てる有り得ない将来を―――。


 侑斗に言われるまでもなく、医者の不養生は避けなければならない。
 自分の身体を気遣う余裕もない毎日だが、学生時代から健康管理をきちんとしてきた涼介は、ここ最近続く体調不良に、原因をはっきりさせて正さなければならないと考える。
 微熱は相変わらず続いているし、空腹時の胃のムカムカもあったり、トイレで微出血を確認したり、流石にまずい。
 ただの過労とは思えない、と忙しい合間を縫って、大学病院には極秘裏に、個人で検査を行った。
 違法行為の範疇に入るかも知れないが、悪用する訳ではないのだから、と至極堂々と、時にしらばっくれながら、出た検査結果。
 大きな病気は潜んでいないようだ。
 だが、特殊な検査値の正常からの増減を見て、目を見開く。
「いや、まさか、これは…この値は、そんな―――」
 脳裏を掠めるそれに、涼介は否定する。
 有り得ない可能性を否定しながらも、更に詳細に検査を繰り返す。
 深夜の医局で、涼介は人知れず頭を抱えた。


* * *