少し離れた後方で、NSXがスピンしたのは分かっていた。

 オレの勝利はもう確定したも同然だった。

 でも、僅かにでもアクセルを緩めることはしなかった。

 最後まで、渾身の走りを続ける。

 ゴールはもう、すぐソコだ。

 終わっちまう。

 もうすぐ、プロジェクトDが終わっちまう。

 ゴールするのが淋しくて、一年にわたって続けてきた遠征のフィナーレを、1秒でも長く、味わっていたくて。

 クルマから降りたくない、永遠に走り続けたい、この幸せをずっと味わっていたい。

 色んな感情が押し寄せる中、それでも胸に去来したモノは、たった一つ。

『アニキ―――…』

 

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

 ドクン、ドクン、ドクン…。

 ゴールまで近付いてきている。

 ヒルクライム2本目、先行するFDが、後追いのNSXを徐々に引き離していると、ギャラリーからの報告があった。

 我知らず、きゅっと拳を握り締めた。

 ドクン…ドクン…ドクン…。

 逸る鼓動は、抑えられない。

 昂ぶる感情を、周囲に悟られないよう、ゴクリ唾を飲み込む。

 喉はもう、カラカラだ。

 ゴールはもう近い。

 間もなく、愛する弟が、戻ってくる。

 自分の元へ―――。

 サイドワインダー陣営が、突如ざわついた。

「エ…ッ、NSXがッ、スピンしたって―――ッ!」

 そんな声が聞こえた。

 握り締めていた拳に、グッと力を込める。

 FDの、勝利を確信した瞬間―――。

 宮口が、松本が、拓海が、喜びの声を上げる。

 ギャラリーも多く集っているこのドライブインでも、プロジェクトDのヒルクライムのパーフェクトウィンの決定に、俄に騒然としてきた。

 間もなく、目の前のゴールに、勝利したFDが飛び込んでくる。

 箱根の山に響き渡っていたロータリーサウンドが、一際大きく、轟いた。

 すぐそこまで来ている。

 出迎えるべく、ゴールライン間際に駆け寄るプロジェクトD陣営。

 高鳴る鼓動を抑えきれないまま、何故か涼介は、今この瞬間、子供の頃のことを思い出していた。

 小さな啓介が、自分の元へと駆け寄ってくる姿。

 いつも自分の後を追い掛けてきて、この胸に飛び込んできて。

 涼介はそんな弟が可愛くて、愛おしくて、手を広げて抱き留めていた。

 腕の中にすっぽり収まった小さな弟は、今やスッカリ大きく成長して、自分とほぼ同じ体格になってしまったけれど、今も昔も変わらず、戻ってきたら抱き締めてしまいそうで、取り敢えず公共の場でそれは自制しなければ。

 などと思っていた、その時。

 真っ黄色の火の玉ロケットが、一際甲高いロータリーサウンドを響かせて、ゴールを切った―――。

 そう、自分の元へ、戻ってきた―――筈なのに。

 美しい羽根の生えた、光〈オーラ〉を放つ黄色いFDは、目の前をコンマ1秒もスピードを緩めることなく、走り抜けていった。

 まるで、そのまま遠くまで羽ばたいていってしまうかのように―――…。

 喜びに盛り上がる宮口らを横目に、涼介は呆然としていた。

 握り締めていた拳の力も緩み、ゆっくりと開いた手のひらを見つめる。

 其処にある筈の《もの》が、するり抜けていったかのようで―――。

 あぁ、そうか―――…。

 自分を追い掛け、胸に飛び込んできていた存在は、もう自分を追い越し、自分の力で、その羽根で羽ばたいていくんだ。

 騒然と盛り上がるドライブイン駐車場で、涼介はただ、立ち尽くしていた。

 

 

 

「啓介さん、何処まで行っちゃったんだろ。なかなか戻ってこないや」

 FDが走り抜けた先を見つめていると、NSXもようやくゴールした。

 ゆっくりと降りてきた、北条豪。

 何となくその様子を見ていた拓海は、スタート前とはまるで別人のように、憑き物が落ちたようなスッキリした顔をしているな、と思った。

 それがイコール、このバトルの質を物語っているのだろう。

 対戦相手をここまで変えてしまう、啓介さんってスゴイな、と思いながら、ヒルクライムの勝利に浮かれてないで、自分は自分のバトルに気持ちを切り替えねば、と思った瞬間、下から聞こえてきたエンジン音。

 今まで姿を現さなかった、ダウンヒルの対戦相手のクルマ。

 自分と同じ、ハチロク。

『あのクルマ…出来る…!』

 

 

 随分先まで走り抜けていったFDが、ウィニングランからようやく戻ってきた。

 東日本最速のヒルクライマーの勇姿が駐車場に降り立ち、ギャラリーは一層盛り上がる。

 熱に浮かされた夜の峠で、啓介はトリを務める拓海にバトンタッチという名のハイタッチで、思いきり強く手をひっぱたいた。

 それをただ、眺めていた涼介。

 いつも真っ先に自分の元に駆けてきた小さな弟は、もう自分を必要としていないのではないか。

 そんな寂寥感に包まれ、まだダウンヒルがあるのに気持ちを切り替えろ、と自分で自分を叱責する。

 自分が認め、口にしていた筈なのに。

《ダブルエースはもうオレを超えている》

 喜ばしいことなんだ。

 残すところあと一つ、ダウンヒルのことだけを今は考えろ。

 そんな風に脳内で葛藤と叱咤を続け、人知れず立ち直ろうとしていたところへ。

「アニキ」

 まっすぐに、ずんずんとやってくる啓介。

「―――勝ったぜ、アニキ」

 精悍な顔立ち。

 暗い夜の峠でも、太陽のように眩しいその笑顔。

 逞しく、頼もしく、愛おしく。

 まだバトルの余韻を残して若干興奮気味の弟は、まるで百点満点を取ったテストの答案を見せてくるような、子供っぽさも持ち合わせていて、自分の中に去来した不安感は、すぅっと流れて消えていくのを感じた。

「―――あぁ。ご苦労さん」

 啓介がゴールした時、かける言葉はいくつも考えていた。

 でも、咄嗟に出てきたのは、至極ありきたりなモノだった。

 これまでの道程が走馬燈のように蘇ってきて、感極まるとはこのことだろう、変に飾った言葉よりも、いつも通りの方がいい。

 確かにこの最終戦で勝利を得た。

 長く続いた遠征も、残る一つ、ダウンヒルで終わる。

 だが、ゴールは終わりではない、これから先も続いていく次のスタートの始まりなのだから、それでいい。

「水飲むか」

「あーうん。全く夜だってのにあちーな。喉カラカラだぜ」

 涼介は1号車から、ミネラルウォーターのペットボトルを持ってきて、啓介に渡した。

 パキュッとキャップを捻って、ゴクゴクと喉に流し込む、上下する喉仏に、飲み干した時の癖、ペロリ口の周りを舐めるその様子に、淫らな感情が首を擡げてくる。

 そんな自分に、プロジェクトDの最終戦の真っ最中なのに、集中出来ていないんじゃないか。

 余りにも眩しい存在に成長してしまった啓介のせいだ。

 心が動くのは、心乱されるのは、いつも啓介のせいなんだ。

 

 

◇ ◇ ◇

 





 

◇ ◇ ◇

 

 

 涼介の部屋で、裸のまま抱き合って、短い睡眠に身を委ね、目覚まし時計によって眠りの縁から引き戻された、朝。

 卒論も既に提出した啓介は、夏休みが明けても大学へと行かねばならない理由はなく、このまま惰眠を貪っていたかったが。

 多忙を極める医大生の兄は、医師国家試験を年明けの2月に控え、いつも通り朝から出掛けなければならなかった。

 涼介が起きるなら、自分も起きて一緒に朝食を摂り、それから二度寝しよう。

 そう思い、母親が用意していった朝食を、食卓に調える。

「啓介と一緒に朝食を食べるのは、久し振りだな…」

 いただきます、と手を合わせ、箸を口に運ぶ。

 下半身に残る鈍痛が、幸福を反芻させて、心地好い。

「オレいつも、アニキの出てく時間にゃまだ寝てたからな。アニキあんま寝てねぇのに、だいじょぶかよ?」

 イタダキマース、と手を合わせてすぐさまガツガツと食べながら、向かいの兄を見遣る。

 疲れも感じさせない程に、今日も最愛の兄は麗しい。

「帰ってくる道中に眠っていたからな。オマエの方こそ、殆ど寝てないんだから、シッカリ休むんだぞ」

「んー。久し振りにアニキとえっち出来たし、疲れも吹っ飛んじまったよ」

 おもむろにのたまう啓介に、涼介は思わず咽せて咀嚼していたモノを吹き出しそうになった。

 自分達の他に誰もいないと分かっていても、つい周囲を気にしてしまう。

「あのな…疲労ってのは見えないところに溜まっているモノなんだ。オマエが今大丈夫と思っているのは、まだナチュラルハイの状態が続いているだけだ。休める時にはシッカリ休め。それも仕事のうちだと、遠征の間に学んだことだろう?」

「へーい」

 食べ終わって、啓介が食器洗いをしている間に、涼介は自室に戻り、支度を済ませて降りてきた。

「アニキ、コーヒー出来てるから、飲んでけよ」

「あぁ、有り難う」

 熱いブラックコーヒーが、身体に染み渡っていき、まだ眠っていた神経も、完全に覚醒した。

 啓介の煎れるコーヒーは美味しい。

 自分では殆ど飲まないのに、家で煎れるのは、もっぱら涼介の為だった。

 兄の好みを完全に知り尽くした、絶妙な味加減に、家でコーヒーを飲む、それだけのことでさえ、嬉しく感じる。

「天気予報じゃ今日も暑いっつってたけど、今イイ感じに曇ってっから、FDメンテに持ってく前に、洗車でもすっかなー」

 工場にメンテナンスに持ち込めば、サービスで洗車もしてくれるのだが、激戦を終えた愛機に、自分の出来るメンテナンスは自分でやりたいと思い、まず綺麗にしてやりたかった。

 洗い物を終え、手を拭いて啓介は玄関を出て行く。

 キーホルダーを手の中で踊らせながら、ガレージの前まで来た時、その足は止まった。

 コンペティションイエローマイカのFDの隣に、クリスタルホワイトのFCが停まっているのだ。

 明け方帰ってきた時には、まだ無かった。

 一体いつ、戻ってきたのか。

 いやそれよりも、この外観は。

 カーボンボンネット。

 でっかいウィング―――ケンタが言っていた通りだ。

 きっと見えないところも、アレコレと弄ってあるように見受けられる。

 何て攻撃的な、戦闘力の高そうなマシンだろう。

 その妖しいまでの美しさに、見惚れてしまう。

 呆然とその鎮座在すFCを見つめていると、涼介がやってきた。

 その足はまっすぐと、愛機FCに向かっている。

「あ、アニキ、コレ―――」

「啓介、曇っているといっても紫外線は強いし、暑いことに代わりはないから、熱中症に気を付けろよ」

 そう言い放ち、FCに乗り込み、エンジンを駆ける。

 アイドリングしながら、サイドウィンドウがするすると開く。

「啓介、プロジェクトDの解散の打ち上げ、どういう形式がいいか、考えておいてくれるか? 今日は何時に帰ってこれるか分からないけど、帰ったら決めよう」

「う、うん。分かった、考えとく」

 いってきます、と告げ、FCは近所迷惑な音を響かせながら、ゆっくりとガレージを出て行く。

 啓介はただ呆然としたまま、その姿を見送った。

「な…何だよ…あのFC…」